織田信長にとっては本能寺、徳川家康にとっては大坂夏の陣と、歴史上の英傑にはそれぞれ最終回にあたる事件があります
ただし、足利尊氏にとっての最終回は自身の死の6年前にあたる直義の死と解釈するケースが多い
尊氏にとってこれ以降の戦は謂わば全て消化試合
では時行は?

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【Tips】尊氏の背中
『太平記』によると尊氏の死因は背中に出来た腫れ物(癰)だと言う
室町幕府4代将軍義持の死因も尻にできた腫れ物を掻きむしったことでの炎症とされ、当時では死に繋がる病の一つであった
創作においては直冬によってつけられた矢傷等の解釈もされる

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大河ドラマ『太平記』においては直義毒殺説を取り最終回のハイライトとなります
この最終回、第1話からのロングパス伏線とか、真田広之の慟哭の名演とか凄まじい傑作回です
そして、大河においても尊氏をここまで突き動かした存在として「神」の存在が示唆されていますが……

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直義の死因は諸説あり、幕府の発表は黄疸による「病死」ですが、当時から尊氏による「毒殺」の噂はありました
ただ、暗殺説は尊氏が急いで直義を殺す理由がないということで否定的な意見も根強いのですが、師直と同じ日に死ぬってのはやはり作為的なものを感じざるを得ない

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【Tips】直義の死
薩埵峠の戦いに敗れた直義は、尊氏によってそのまま鎌倉の延福寺に幽閉される
幽閉後2ヶ月が経った1352年2月26日、直義は急死する
その死亡した日時は奇しくも直義と対立して殺された高師直ら高一族の一回忌の日であった

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実際のところ義詮との関係調整に苦労したとは言うものの、将軍と鎌倉公方の間で諍いが起きたことは一度もなく、面識は少なくとも基氏と義詮はお互いにリスペクトしていたとも考えられます
というより観応の擾乱という実父養父の骨肉の争いを見て反面教師にしたような……

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関東赴任後は高師冬と上杉憲顕双方が関東支配の象徴として基氏を担ぎ上げようと抗争を開始
小学生頃~青春期が観応の擾乱の渦中という情操教育的に不安になる環境で育つ
ただ、鎌倉入り前の5歳の時点で真面目な直義の猶子だったからか、養父同様田楽嫌いのクソ真面目に育った

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基氏が京都で生まれた頃には、実兄義詮は鎌倉に赴任しており、義詮が上京する際に入れ替わりで基氏が鎌倉入りを果たしため、兄とはあまり面識がなかったとされます
そのため『難太平記』では京都の兄との関係調整に苦労して心労となったのが死因と考察されています

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逃げ若武将名鑑【足利基氏】
足利尊氏の息子で義詮の同腹弟。初代鎌倉公方
直義の猶子でもあったため、性格も彼に似て真面目一辺倒だったという
関東管領の上杉憲顕と共に鎌倉府として東国の統治に務めるが、28歳の若さで急死した

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なお、頼継の改名は立直の度に行われたと考えられます
諏訪大社大祝は神の依り代である以上、諏訪外部に出向いて戦の穢れにまみれることが許されませんが、頼継は積極的に諏訪の外で戦をしたため、その都度改名して穢れを清める必要があったのです

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還暦を過ぎてなお神としての影響力は強く、諏訪の神職を諏訪の人間でない伯耆守なる者が継ごうとして非難された際は、自らの従者の牛山を養子として神職にして前例を作り、伯耆守の子を牛山の養子にして神職として出仕させ争いを収めた
人間力の高さは名を改めても健在でした

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頼寛は実際は時行の死後に直頼が名乗った名前とされます
この頃には信濃の南朝勢力も衰退し、足利方の諏訪氏である円忠の薦めもあって尊氏の死後に北朝に降伏
2代将軍義詮に仕え、彼が亡くなった頃に頼寛として活動。信濃守護となった斯波家を後ろ盾に小笠原と抗争を続ける

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逃げ若ではわかりやすさ重視のため、登場人物の改名を極力描写しない方針をとっていることが窺えます
例えば足利直義は鎌倉幕府に反旗を翻す前は「高国」だったり、桃井直常も般若坂の戦いの前は「貞直」だったとされます
足利高氏→尊氏、新田徳寿丸→義興と並ぶ例外が今回

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逃げ若武将名鑑【諏訪頼寛】
応安年間(1368年)以降における諏訪家大祝(当主)
諏訪頼継→頼嗣→直頼が三度目の改名を遂げた姿とされており恐ろしくややこしい
さらに至徳年間(1384年)以降には出家して「普寛」を名乗った
コロコロ改名するこの時代ほんといやだ by雫

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直義を喪った後も関東直義派残党として宗義親王の下に結集して直頼は抵抗を続ける
尊氏の死後には上杉家が関東管領となり、その縁で直頼も復権
対抗勢力である小笠原家との抗争が激化していきます
この辺りで直頼と思われる人物の活動は途切れますが……

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その後、直義が尊氏から逃れるために京都から脱出する際に従った腹心の一人として直頼の名が挙げられている
直義は越前→上野経由で鎌倉を目指し、その鎌倉入りを防がんとする小笠原勢を諏訪は叩いて足止め
直義は無事鎌倉に到着するも、薩埵峠で尊氏に敗れてすぐに死亡

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なお北朝所属時には既に「頼“嗣”」を名乗っており、表記揺れでなければ既に父の“継”の字は捨てられている。時継は泣いていい
観応の擾乱発生時には直義方を表明しており、上杉と共に高師冬討伐に従軍
その後、上洛して打出浜の戦いの後に起きた京都での戦に参戦している

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大徳王寺城の戦い以降の諏訪頼継の動きを見ると1347年には北朝に信濃守を要求。その代理の権官に任じられるように、この頃には足利方に帰順しています
これは小笠原との抗争への対抗措置で、その後信濃守を再要求して小笠原政長とのW信濃守になるなど交渉上手の強かさを見せる

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“直”の字は直義からの偏諱と思われ、諏訪直頼が直義派であったことの証左となります
偏諱において相手の名前の上を授かるのは最上位の恩義と言われ、いかに信頼されていたかが窺える
なお、ただでさえ影が薄い父時継から受け継いだ“継”の字は消失した。ナムアミダブツ!!

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逃げ若武将名鑑【諏訪直頼】
観応年間(1350年)以降における諏訪家大祝(当主)
書籍によっては別人とすることもありややこしいが、諏訪頼継(嗣)が改名した名前とみられている
そもそも当時の史料で「直頼」の名を冠するものが1枚しかないのがややこしさを加速させる

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