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【Tips】直義の死
薩埵峠の戦いに敗れた直義は、尊氏によってそのまま鎌倉の延福寺に幽閉される
幽閉後2ヶ月が経った1352年2月26日、直義は急死する
その死亡した日時は奇しくも直義と対立して殺された高師直ら高一族の一回忌の日であった

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実際のところ義詮との関係調整に苦労したとは言うものの、将軍と鎌倉公方の間で諍いが起きたことは一度もなく、面識は少なくとも基氏と義詮はお互いにリスペクトしていたとも考えられます
というより観応の擾乱という実父養父の骨肉の争いを見て反面教師にしたような……

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関東赴任後は高師冬と上杉憲顕双方が関東支配の象徴として基氏を担ぎ上げようと抗争を開始
小学生頃~青春期が観応の擾乱の渦中という情操教育的に不安になる環境で育つ
ただ、鎌倉入り前の5歳の時点で真面目な直義の猶子だったからか、養父同様田楽嫌いのクソ真面目に育った

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基氏が京都で生まれた頃には、実兄義詮は鎌倉に赴任しており、義詮が上京する際に入れ替わりで基氏が鎌倉入りを果たしため、兄とはあまり面識がなかったとされます
そのため『難太平記』では京都の兄との関係調整に苦労して心労となったのが死因と考察されています

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逃げ若武将名鑑【足利基氏】
足利尊氏の息子で義詮の同腹弟。初代鎌倉公方
直義の猶子でもあったため、性格も彼に似て真面目一辺倒だったという
関東管領の上杉憲顕と共に鎌倉府として東国の統治に務めるが、28歳の若さで急死した

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逃げ若ではわかりやすさ重視のため、登場人物の改名を極力描写しない方針をとっていることが窺えます
例えば足利直義は鎌倉幕府に反旗を翻す前は「高国」だったり、桃井直常も般若坂の戦いの前は「貞直」だったとされます
足利高氏→尊氏、新田徳寿丸→義興と並ぶ例外が今回

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その後、直義が尊氏から逃れるために京都から脱出する際に従った腹心の一人として直頼の名が挙げられている
直義は越前→上野経由で鎌倉を目指し、その鎌倉入りを防がんとする小笠原勢を諏訪は叩いて足止め
直義は無事鎌倉に到着するも、薩埵峠で尊氏に敗れてすぐに死亡

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ひろプリin鎌倉

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『太平記』の義詮評は「人の意見に流されやすい」でイマイチ頼りない2代目という印象
ただ、これは義詮の立場を考えると仕方ない部分があり、鎌倉府時代は斯波や上杉と言った執事、直義失脚後に京都に上ってからは師直、師直死亡後は直義……と補佐役が次々変わっている

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鎌倉ぽかにゃん

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作中でモデルの一人として挙げている玄蕃丞は鎌倉幕府に仕えた御家人
赤木山の新左衛門や平出の左源道といった豪族と仲が良く、よく池之坊の屋敷で酒宴を開いていた
3人は幕府の隠密と伝わり、その神出鬼没さから狐と呼ばれた
玄蕃は武士の官位なのでルーツとしては自然

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【らくがき】スーパー鎌倉殿タイム

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その時、信濃守護の座も喪失しますが、尊氏の無茶苦茶に起因して尊氏派として再起
再び激化する足利兄弟の戦の中で諏訪・吉良・武田を次々と破って新体制を築いた鎌倉の尊氏の下に参陣
信濃国春近領を安堵され信濃守護に復帰、その地位を固めます

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