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1942年、昭和17年12月31日
ガダルカナル島撤退
御前会議において「継続しての戦闘が不可能」としてガダルカナル島からの撤退が決定された。ガ島に上陸した総兵力は31,404名、のちに撤退できたものは10,652名。戦闘による戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている。
12月8日 ハワイ作戦
03:35、水平爆撃隊、停泊中の戦艦群に対して攻撃を開始。同編隊は慎重な照準を期したため、照準を三回もやり直したものがあり、そのため爆撃は予想以上の命中率をあげた。
12月8日 ハワイ作戦
01:30、第一次攻撃隊・上空警戒機、発艦。(艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機)
機動部隊は直ちに針路一八〇度、速力二〇節に復帰し更に南下を開始。
占守島の戦い
師団長は「停戦は了承するも武装解除の条件は許可してない」と認めず、柳岡参謀長に再度の交渉を命じた。 柳岡参謀長は通訳1名だけを伴い、20日朝ソ連軍側に向かった。日没後 ソ連側の夜襲があったが、幌筵島からの増強で交替していた山田大隊は応戦しこれを撃退。
8月1日 本土爆撃
長岡空襲
22:30~00:10、米第20空軍B-29 125機、長岡市中心部を焼夷弾爆撃。中心部市街地の約8割が焼失。死者1,486名・被災者74,508名。
7月30日 本土爆撃
昼間、米機動部隊艦載機、各地の飛行場・船舶・鉄道・工場・都市・発電所等に対し銃爆撃。
900機、関東地区
513機、東海地区
523機、中部地区
7月6日 本土爆撃
清水空襲
23:30~、米第20空軍B-29 133機、清水市街地(現静岡市清水区)を焼夷弾爆撃。死者151名。
(清水区は私の故郷でもあります)