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遠藤虎之助は会津本郷の陶工仲間とと血判志願し越後水原奉行萱野右兵衛隊に編入。越後戦線へ出兵し奮闘するが戦闘で左腕を負傷。会津若松の病院で左腕の切断手術をうけたものの病状は悪化、官軍が領内に来襲する中憤死する。享年41歳。
共に出兵した息子平太(15歳)は生還し戦後、従軍記をのこす。
萱野隊長は水原の民に慕われていたようですが伴百悦は嫌わ……怖れられていた模様。
しかし、隻眼であった為か強烈な印象を残したようだ
こんな顔で兵糧出せ人夫出せ言ってたかもしんない
三間市之進
長岡の花輪馨之進、渡辺進と共に長岡の三進と呼ばれた逸材。
北越戦争では軍事掛として第二軍を指揮し、総督河井が最も信頼していたとされる
維新後は陸軍に入り初代憲兵司令官となり後年は石川県知事に就任。
継之助股肱で中央で活躍した異色の人物
イラストは新町口を防衛する三間様
会津藩士 伴百悦 500石
戊辰戦争時、越後口軍萱野右兵衛隊組頭、のちにのち朱雀寄合二番隊中隊頭を務めるなど奮戦。
隻眼であったが剣の達人
戦後の人生の内容が濃すぎて此処に書ききれませんね…
とても尊敬している会津武士
長岡藩士 大川市左衛門 200石
刀隊長、銃士隊長として北越戦争を戦う。7月25日長岡城奪還後の防衛戦において奮戦。足に重傷を負いながらも指揮を続けた。大川が戦線離脱後、大川銃士隊は大隊長山本帯刀が直接率いた。
長岡藩内の精鋭ばかりを集めた
波多謹之丞隊
北越戦争時は常に激戦地で奮戦しとくに7/25~29の長岡城攻防戦において多くの負傷者、戦死者を出した。
波多隊長自身も常に前線に出て戦い、勇猛ぶりを発揮したという。
イラストは7/25長岡城奪還の際、城下で重傷を負った旗持ち中間恩田藤吉と波多隊長
サムライは座してるだけで
こんなにもかっこいいのか…!!と思った🎥「峠」のつぎの間に控える長岡藩士 二見虎三郎
美しい所作や武家言葉も良かった~
サムライはいい…
#峠最後のサムライ