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土方歳三 #歴史で最初にできた推しは誰 なんか自分でも珍しいというか今なら絶対やらないキャラデザだけど黒髪ではない土方氏で、これは多分最初に出会った同人誌の土方氏の影響なんだよなあ
壬午年二月廿二日夜半 聖王薨逝也 「上宮聖徳法王帝説」より というわけで聖徳太子忌日!太子会! ちなみに日本書紀では二月五日。日本書紀ではなく上宮聖徳法王帝説が優先されてるのは何故でしょうか まだ顔安定しない厩戸絵置いときます
一度しか描いたことない鈴鹿王置いときます。 長屋王と同母兄弟で年近い設定なので割と顔も似てるけどキャラが違う 葛野入れて長屋鈴鹿兄弟もまた描きたい
なので習作イワレビコ描いてた。 耳飾は新沢千塚の副葬品参考にしました(雑すぎて原型なし) 先日博物館で古代にあった装飾品がその後の日本で全く扱われなくなるなるの不思議だよねという話をしていたのを思い出して普段あまり描かないので描いてみた。
長屋王の「自盡」は自殺という意味で死に方までは特定できない語です 吉備内親王の息子王らの「自經」は首をくくるの意味なのでこの二つは手段が違うような印象を受けます。 毎年上げてるけど好きな小説の場面のイメージで描いた長屋王絵置いときます
懐風藻の川嶋皇子の伝にある「及津謀逆,島則告變」(訳:津の謀逆に及び、嶋則ち変を告ぐ)の大津の「津」呼びと川島の「島」呼びが読んでるとじわる。前後あっての略称だとは思うけどおれも大津を津と呼びたい
元正天皇の言葉を引用して聖武天皇の長い詔が続きますが、同日神亀元年に改元されています。 この詔の中にも「挂畏淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典」という言葉が出てくるのですね…
延暦元年二月三日 參議從三位中宮大夫兼衛門督大伴宿祢伯麻呂薨。祖馬來田贈内大紫。父道足平城朝參議正四位下。(略)尋拜參議。宴飮談話。頗有風操。天宗高紹天皇寵幸之。(略) 薨時年六十五。 二月三日は大伴氏の中でも結構上位推し伯麻呂の薨去日です。 絵は昔の大伴本の表紙で服は伎楽衣装。
つまりこういう感じが、確かに飛鳥時代にはあるイメージで、奈良時代以降はイメージとしても見られなくなるのは確かなのでここも時代の分岐点だなと思います (絵は名所図会のもので聖徳太子と推古天皇に跪く群臣)
描きかけ絵を片付けようと思って、大伴古麻呂。 もうちょっと上下左右描いてるけどトリミングした 前髪のバランスがとても難しい人