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大友皇子曾孫の淡海三船が卒去。壬申の乱で大海人軍が勢多に迫るこの時期ですが、この大友系譜の三船も藤原仲麻呂の乱において勢多でこの事件に関係しているのがなかなかすごい因果だなと…。こちらには「文人の首」が出て来ないけど、先に亡くなった石上宅嗣の薨伝に出てきているからでしょうかね。
天智天皇皇女で草壁皇子妃、そして文武天皇の母である阿閇皇女が即位し、第四十三代元明天皇となりました。
詔はがっつり端折りましたが、初出の「不改常典」の部分だけ上げておきました。割とイレギュラーな即位に対して持ち出した方便ではあると思いますが、天智天皇の存在感上がってきてますよね。
奈良時代の天平九年は疫病流行が本格化、藤原四兄弟では二人目の四男麻呂が薨去です。
有名な坂上大伴郎女のこじこじの相聞歌は麻呂の歌に和したものですが、この二人もっと長続きしてたらハイレベルな歌の殴り合いが見れたかもしれないなと思わなくもない。
高市は結局終始大友を意識しないといけない人生だったのだなと思うわけです。
最初らへんとか仲良くてもいいんじゃない?と思ったりしてこうなった。
十市?高市と十市で大友を取り合えの心意気。
目下壬申の乱期間のこの時期に亡くなるとはね…!という高市皇子の訃報。最初から最後まで微妙な立ち位置のままだった印象です。
私は高市大友推しなので、この人太政大臣になった時に一瞬でも大友皇子のこと過ぎっただろ!!!って想像するだけで飯が食えます。
藤原雄田麻呂のほうがしっくりくるようになってきましたが、光仁・桓武天皇即位の功労者ですね。桓武が即位して後宮に入った式家の娘の皇子が立て続けに即位するわけですが式家自体は失速してしまって、百川や兄の良継がもうちょっと長生きしてたらその後の状況変わってたかもねえと思います。