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Honolulu Event Today ホノルルのイベントを紹介。東京生まれ。横浜育ち。静岡市を経て、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル市へ移動。情報収集のため、ハワイを愛する皆様をフォローさせていただきます。ハワイの情報をシェアするためのアカウントです。リツイートはご自由に♪
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カマプアアは、島の風上側の、雨の多い涼しく湿った環境を好む。河川に浸食され所々に滝のある渓谷は、巨大な雄豚であるカマプアアが鼻で地面を掘ったことで出来たと言われている。そこは豚が好む植物が豊かなところであり、農業神ロノと関係があることを示している。彼が好む環境は、ペレと正反対だ。

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しばしばトラブルを引き起こし、本能的な欲望のままに行動する男性優位主義の性格には、ポリネシア人の知る豚の性質が表れている。
カマプアアの数多くの好色な冒険や激怒した夫たちとの争いの話に、昔は様々な脚色が施され、ストーリーテラーが16時間もかけて、すべての話を物語ったと言われている。

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Herb Kāne: PELE⑫
ポリネシアでは、相対するものが一対で創られた。ペレとカマプアアの愛憎関係は、その例だ。彼はハンサムなチーフに化身し、背中の豚の剛毛を隠すためにマントを羽織った。また巨大な八つ目の豚や様々な魚、植物に変身できた。カヒキコロという棍棒で槍をかわし、戦士たちを倒した。

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このチャントは、ハワイからタヒチへ行き、ハワイへ戻って来た彼のチーフであるモイケハを称え、ハワイ・タヒチ間を航海した3世代の物語を伝える。息子のキラは、南へ航海し、父のかたきを討った。孫のカハイは、パンノキの若木をハワイに携え、オアフ島クアロアへ到着した。
彼らはどんな人たちか。

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ハワイという名前は、ライアテアの昔の名前バヴァイイに遡り、それはサモアのサーヴァイイから名付けたのだろう。
「見よ、ハワイだ! 島だ、人だ! ハワイの人々はタヒチの子供だ」
このハワイ最古のチャントは、タヒチからハワイへの航海の成功を祝って、ナビゲーターのカマフアレレが作ったもの。

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Herb Kāne: PELE⑦
450年のハワイには、マルケサスやタヒチから船で渡って来た人々が住んでいた。
数百年後、ライアテア、ボラボラ、フアヒネの身分の高い冒険家たちは、四方八方へ船で乗り出す。彼らはハワイを再び発見し、タヒチとハワイの往復が始まる。この2回目の移住がハワイの伝統の始まりだ。

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1883年、軍艦の遠洋航海で169人が脚気を発病し23人が死亡した海軍では、パン・牛乳・肉・野菜の食事で脚気の発病を減らす。
1888年9月、安藤総領事は、青木外務次官へ提出したマウイ島移民の現況報告で、医師が米食を廃止するか減らしてパンや麦飯に代えたところ、脚気病は大きく減ったと伝えている。

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1886年1月、アーウィンと神奈川県知事との間で契約された渡航約定書には、移民への優遇策として白米を供給することが約束されていた。
翌1887年3月、安藤総領事は「脚気で死亡する渡航者が多いのは1日3食を粟麦から白米に変えたためという医師の説がある」と白米供給の削除を井上外務卿へ求めた。

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ハワイ官約移民の父34
第1回渡航船到着4ヵ月後の1885年6月、ハワイ島の移民1人が脚気にかかり医師の診断で5日養生したが、雇主に脚気の知識がなく仮病扱い。
第2回渡航船到着1ヵ月後の1885年7月、ハワイ島へ渡った25人のうち17人が脚気。
総領事は1886年7月、脚気による死亡者が多いと報告。

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船は横須賀港の北にある長浦港へ廻航され、乗客は検疫施設に1週間隔離された後、1月27日に出港した。アーウィン、いき夫人、長女ベラ、初代ホノルル領事の中村治郎夫妻も搭乗。船内で1ヵ月未満の捨て子を発見。アーウィンが費用を負担して婦人に養育を託し、後に親が分かったため日本へ連れ帰った。

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