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「ʻIolani Luahine/イオラニ・ルアヒネ(1915~1978)像」
ハワイ島のフラとチャントを受け継ぐ家に生まれた。
ハワイ王国の崩壊と米国併合により
次第に見世物化していたフラに
フラカヒコ(古典)の魂をそそいでよみがえらせ、
後継者を育てることに
生涯を捧げた。
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マーク・トウェイン『ハワイ通信』(1866年)
トウェインは1866年3月18日~7月19日、米国の新聞記者としてオアフ島、マウイ島、ハワイ島を取材し、25本の記事を送った。王女の葬式、キラウエア火山の噴火、ホーネット号遭難者の漂着、捕鯨船、砂糖農園などをユーモアを交えて報告した。
30人ほどの、豊かな胸をした若いカナカの女たちが、6列に並んで、一定のリズムで金切り声をたて始めた。体ぜんたいを捩じらせたり、頭や手を左右へ伸ばしたり、足を一歩ふみ出して左手を一斉に前に突き出しながら右手をヒップに置いたり、それから互いに入れ乱れ、ジェスチャーはますます複雑になり
故王女は、今もなおイオラニ宮殿に安置されている。あちこちの島から渡ってきた大勢の現地人が、わたしの家の戸口の前を通って宮殿に向かい、毎晩、夜通し、30日以上ものあいだ、松明を王宮の中庭で燃やし、哀悼の歌をうたい、フラ・フラを踊り、胸も裂けそうな悲しみを死者のために叫んでいる。
玉虫左太夫『航米日録』(1860年)
徳川幕府は1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、新見豊前守正興を正使とする使節団を米国に派遣。一行77名は、米国の提供した軍艦ポーハタン号で日本を出発。途中嵐に遭遇して石炭を使いすぎ、補給のためホノルルに13日間、寄港した。
市街は碁盤の目の様な配列で、家屋の多くは木材を使用している。諸国民が来て居住し、貿易をしている。女郎屋、劇場が頗る繁盛している。美しい英館、米館、仏館が有る。教会は三箇所有る。山麓に沿って土着人の草葺屋根の粗石を積み重ねた小さな家が有る。その近くに水田があり、殆ど芋を植えている。
海岸の方に行ったが、途中で6~7歳の子供が自分の所にパンを持って来た。14~5歳の女子はマッチを持って来て煙草を勧めた。風俗・習慣なのであろうか、外国人を疑うこともせず、その家に行くと慇懃に客を待遇し、珍品や奇品は言うに及ばず、自分の寝室或いは厨房・便所迄、公然と他人に見せる。
「リリウオカラニ女王(1838~1917)像」
1891年、兄のカラカウア王が死去し、国王に就任。
1893年、白人勢力のクーデターで王国崩壊。
1895年、共和国反逆罪で8カ月幽閉。
1897年~98年、米国で大統領に王政復古を訴えるが、
米国はハワイを併合。
生涯に数百曲の歌を作る。
「カピオラニ王妃(1834~1899)像」
1874年、夫カラカウアが王に選出。ハンセン氏病患者へ寄付金を集める。
1877年、初の公園に王妃の名を冠す。
1887年、米国クリーヴランド大統領を訪問。英国ヴィクトリア女王在位50年式典に出席。
1890年、死産体験をふまえて産院を開設。
「戦国駿府の武将たち」
静岡市内の古城を舞台に展開された今川氏、武田氏、徳川氏の武将たちの動向を、小和田哲男氏の著作等をもとに紹介します。
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