しかし敵対していた筈の小笠原貞宗によって藤沢政頼は追い出され、頼継が大祝を継ぐことに
このことを考えると、貞宗が頼継に恩を売って北朝に引き込もうとしたような雰囲気がありますが、その後の頼継は南朝派であり小笠原家とも敵対を続けている
どうにも辻褄が合いません
 

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中先代の乱後の混沌期の諏訪大社の主たる大祝だけあってかなり混み入った事情のある人物です
中先代時には7歳の子供であり、乱の首謀者の血縁者ともあって諏訪郡原山に逃亡・潜伏
大祝には藤沢政頼という遠縁の庶流が継承したとされます
 

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逃げ若武将名鑑【諏訪頼継】
諏訪頼重の孫にして時継の嫡子。諏訪大祝即ち諏訪明神の正統後継者
祖父・父の起こした中先代の乱終結後に潜伏生活を余儀なくされるも、神験が複数あったことで大祝を継ぐことに
南北朝動乱に際しては北条時行と結託して小笠原貞宗と争ったという
 

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金ヶ崎城の戦いで高師泰の下に入り、子の師貞・師国が高師直からの偏諱な辺り、南北朝の早い段階で足利首脳に取り入り勢力を拡大したのは間違いない
信州惣大将は守護に対する形式的な副将めいた立ち位置で、これを不満に思う村上家は幕府や小笠原家と対立していく

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兄は『太平記』で人を12mくらい放り投げたり護良親王の影武者になってはらわた撒き散らす凄絶な切腹を遂げた義光(のモデルの義日)
兄の系譜の義弘は「村上水軍」の祖とも言われますがそちらも高確率でパチモン
兄の死後に家を継いだ信貞が信濃村上氏を盛り立てた功労者です

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逃げ若武将名鑑【村上信貞】
北信濃に位置する更級郡村上郷領主にして信州惣大将
中先代以降の北条残党討伐の際に小笠原貞宗の下に加勢して転戦
その頃に領地の近い市河氏と共に戦ったり、足利首脳の高兄弟に近付くなどして巧みに足固めを行ったとみられる

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しかしそんな覇気も次第に衰え、1339年に52歳で崩御
『太平記』は晩年の後醍醐天皇の心境を「骨は南山(吉野)にうずまったとしても、魂は京都の空を飛び回りたい」と表現
望郷の想いも空しく、稀代の天皇は京に戻ることなく吉野の苔にうずもれた
 

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本人のあまりにアグレッシブな行動力もあり「異形の王権」とも取られますが、反面近年では「形だけの模倣しか出来ない」とその特異性を否定する意見も出てきている
逃げ若での「行動力」の部分に着目しての「ベンチャー精神と上昇思考に溢れた男」評価が割と妥当かもしれない
 

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尊氏の後醍醐天皇愛は兎も角、後醍醐天皇への評価は「批判」から始まっている上、合理主義的な研究を進めるより前に様々なイデオロギーと結び付き複雑化してしまったことで、今度は「肯定」もしづらいというように非常に複雑な背景を持ちます
 

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じゃあここまで信奉していた尊氏って純愛じゃんね……
幕末には尊王攘夷思想が行き着き「足利は正当な皇統たる南朝に対する逆賊!」として「足利三代木像梟首事件」が起きましたが、尊氏に関しては完全に冤罪だと思う
義詮も南朝とは講和進めてたしなあ。義満?残当

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後醍醐天皇に好意的な意見が出始めるのが、戦後に公職追放された歴史家平泉澄が唱えた「皇国史観」からです
まあ皇国史観自体は極端な天皇至上主義のイデオロギーという厄ネタなんですが、逆に言うとここまで極端な思想に行き着くまで後醍醐を擁護する向きはなかったという
 

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狂信者である尊氏を除くと同時代からかなり批判的な意見が多いことに驚きます
水戸黄門こと徳川光圀が編纂した『大日本史』やそこから派生した尊王攘夷思想に繋がる水戸学は南朝に対して好意的ですが、大体が忠臣楠木正成に対するもので後醍醐帝自体は「悪王」扱いなのも凄い
 

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敵対した尊氏が実は後醍醐天皇を一番慕っていたと言われており、後醍醐天皇の崩御時には天龍寺を建立して大法要も行っている
これは祟り等を恐れての政治的な動きで特別おかしいことではないが、崩御100日目に尊氏が著した上記怪文書…もとい願文を見るに完全にキマッている
 

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『太平記』の中でも随一の謎である宗広の悪業暴露と地獄に堕ちた項目ですが、全体を見ると結論は「仏教を信じろ!」という宗教勧誘そのもので余計に怪しくなっています
最終的にスピらせることが目的としても、そのダシに結城宗広が使われた理由は全くもって不明。なんでだよ
 

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【Tips】結城入道堕地獄事
『太平記』で死後、突如シリアルキラーであることを明かされた結城宗広
その後、彼に由縁のある僧は謎の山伏の導きにより宗広が地獄で刑罰を受ける様を見せられたという
そのことは宗広の子の親朝に伝えられ、父を救うために供養が行われたという

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その後は直義派として師直と対立
畠山直宗と共謀して師直を執事から解任させ、さらに直義邸での暗殺を目論むも失敗
激怒した師直は続く御所巻で直義を失脚させて重能と畠山も出家して流刑に。その後流刑先で暗殺された
なお重能には実子がなく憲顕の子の能憲を養子にしている

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元は関東庇番六番組に所属の足利一門のエリート
建武の乱では九州落ちにも同行してますが『太平記』では尊氏のストッパー役として描かれる
特に尊氏が「帝と戦いたくない!出家する!」とほざいてた時に「出家しても許さん」とにせ綸旨を作成して騙したとか

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逃げ若武将名鑑【上杉重能】
足利兄弟の従兄弟で直義の腹心
藤原北家勧修寺家の出身で母方の伯父である上杉家の養子となったため、上杉憲顕との関係は厳密には義兄
建武の乱でも足利兄弟と共に付き従い、伊豆守護を経て直義の腹心に。しかし高師直との対立の末に暗殺される

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「黄金のような君徳」足利尊氏(足利家棟梁)
「君臨すること太陽の如く、我らが仰ぎ見ること雲の如くの王者」足利尊氏(征夷大将軍)
「陛下の穏やかで優しいお言葉が今もなお我の耳の奥から離れず胸が苦しい」足利尊氏(自称後醍醐天皇の弟子)

オイ、怪文書止めろ!!

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