大友皇子と近江朝五大夫の誓いは十一月二十三日にも内裏西殿の繡仏の前での誓いがあり、これだけ誓ったのに…と壬申の乱に思いを馳せてしまうやつ。

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大野東人といえば蝦夷征討などでも活躍しておりますが、昨日終結してた広嗣の乱の印象が強いですね。そこから二年後に薨去してるのでそこそこの年齢だったのではないでしょうか。父の果安は壬申の乱で近江軍の将であの大伴吹負を破ったりしています。(ただし途中からフェードアウト)

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壬申の乱で推しが亡くなったと思ったら別の推しの忌日もすぐ来るんだよねーというわけで大伴旅人の忌日です。古代豪族としての大伴氏はこの辺りが最後かなあという気がするよ…。家持はもうここのレベルの人ではない…

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七月二十三日記事で急に登場する物部麻呂、後の左大臣石上麻呂です。一、二の舎人(←正直この二人も誰なのかどうなったのか知りたい)とは別に個人名で明記されているのは日本書紀編纂段階で既に高位だったから?大友の最期まで従ったことは評価されていたのかもしれませんね。

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残念ながら、何か大きな流れが変わる段階ではどうしても誰かが犠牲にならないといけないのだろうというタイミングがあり、そこに陥ってしまったのが大友皇子だった気がします。大義名分など風の前の塵に同じよ…

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(もうひとりだけ)

1.大友皇子(伊賀皇子・弘文天皇)
2.なんか扱いがよくないな…と思い始めたのが最初だったような
3.太政大臣or淡海朝皇太子or大友帝
4.本人は悪くない
5.天智天皇・高市皇子・物部麻呂
6.『懐風藻』はおれたちの味方だ
7.毎年壬申の乱だよ

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高市皇子、こんな壬申の乱真っ最中な時期の薨去なのがまたしんみりしてしまう。「後皇子」の名前も微妙な響きに感じてしまう。
活躍とは裏腹にしんみり要素が多い高市。

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置始菟が名に違わぬ俊敏性(?)で吹負を助けてますね。
そして割と負けてる吹負。

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さて毎年壬申の乱期間にかぶる上に記事が長いのでなかなか網羅できませんが、橘奈良麻呂の乱がそろそろ勃発です。乱起こす前に一網打尽されていまうので乱なのか??という印象の事件ですが、ここで既に一度決着してるようで終わりません。

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そんでこの時期私が一番報われてほしいのは大友皇子だあああああああ!!!ああもう一ヶ月もねえ!!!!!

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不破から出発した大海人軍の中に置始菟が居ますね。
うさぎさんを絵に描くようになったきっかけの人物なので思い入れがあります。
なかなか良い活躍をしてるので覚えてあげて。

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これだけ前面に出てきて活躍して(ただし戦いの最前線にいたわけではなさそう)おきながらその後も絶対に即位できない的位置づけなのが逆に高市皇子の存在感増してるなあ。
(即位してた説もしくはしようとしてた説もあるかもしれんが)

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高市皇子が全面に出てくることもあって、大友皇子と高市皇子の第二世代の戦いという構図も無きにしも非ずだと思うのですよね壬申の乱は…
(というのは個人的な思い入れでもありますが)

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戦ってるの叔父と甥のはすだがなぜか存在感を感じさせるまあまあ元凶の方(兄で父)と併せて過去絵置いておきます。

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落書きだけで終わらせる予定でしたが描きました。物部麻呂と朴井雄君。
元は同じ氏族でありながら壬申の乱では麻呂は大友皇子側、雄君は大海人皇子側についたので対立しました。

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物部麻呂、後の石上麻呂は壬申の乱で大友皇子の最期まで付き従っていたことで思い入れの深い人物です。どういう立場でそこに居たのかわからないので色々憶測されてますが…
平城遷都の際は藤原旧京の留守官だったこともあって、奈良期にはもう前時代の人という感がある。

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では で開催され携わらせて頂いた今年夏の平城宮跡いざない館での で作成したパネル※です。文字入れてJPEG変換したら画が粗くなったけど、画だけはまた後で上げるので、とりま個人的には、素人だけど頑張って無難✨に仕上げた説明文を読んで❗😂#壬申の乱

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同日同内容で病床の天智天皇から皇位を継ぐよう言われた大海人皇子が辞退して出家する記事ですが、天智紀と天武紀で微妙に記述が違います。特に天武紀は蘇我安麻呂が大海人にアドバイスしたりしてて全体的に大海人の行動に正当性を持たせてる感ありますね。
(実質は壬申の乱2023)

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