いつもの、芳年のおもゐつづらの絵の一ッ目の妖怪と蝸牛の妖怪のわかれめ観察のやつ。

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 すずめのお宿のおもいつづらと、西端逆運魔王さまと、造物大女王さま。(芳年のおもゐつづらの妖怪は、一ッ目の妖怪と蝸牛の妖怪だよ――着物の色とか肌の色でよく見分けてみよう。持ち上がってるのは蝸牛の妖怪の腕ではないヨ)

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松永久秀を
月岡芳年の松永久秀を参考に
いや、あの浮世絵格好良すぎるでしょ…

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月岡芳年「身延山七面大明神出現」(明治元年/1868年)画像検索で偶然に発見&初見の作品。大判3枚続きの右2枚で、左下に武田菱の旗が僅かに見えることから、武田信玄が身延攻めを行った折、法華経を守護する七面大明神が武田勢を退けたという伝承に基づいて描かれた作品と思われます。#日蓮宗

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ヘッダーの画像を縁起の良いものにしてみたのだ(七福神、月岡芳年、1882年)

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くろもりさんからの逆輸入、工具でご機嫌な26番ちゃんシリーズの放射線
私の原初体験は月岡芳年の金鵄の浮世絵

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月岡芳年「一魁随筆/淀之君」(明治6年/1873年版行)大坂落城の際、自害直前の姿を描いた作品ですが、江戸期には太閤記など元亀・天正以降の武家に関する出版は幕府の出版統制で禁じられており、淀君に関しても直接描くことは出来ず、明治に入りようやく実名で描かれたものです。

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昔は、軍記や講談、浮世絵の題材に描かれるほど、小密茶は有名な根来の荒法師でした
月岡芳年と歌川国芳の小密茶

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本日は新たに公開した「明治・大正・昭和初期の美人画」のギャラリーより、作品をご紹介します。
こちらは明治時代に が描いた『うるささう』。うるささうは、かまいすぎて煩わしい、面倒そう‥といった意味だそう。
https://t.co/Gc49iwkry8

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金太郎「…おぅワレ。ワイのシマで何勝手しとんねん。あんまナマぬかしよるちゅうんなら、速攻で いてこましたろか?」(月岡芳年の明治初年頃の武者絵揃物より)

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芳年センセの揃物「近世巷説士傳」(明治2年/1869年)のこの作品、当時は未だ幕末期の人物の実名表記が出来なかった時期だから当て字・仮名表記だけど…これって詞書の内容と照らし合わせると清河八郎だ!!だとしたら、八郎を描いた浮世絵作品は滅多に無いから凄くレアだ…。#清河八郎

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超レアな関ヶ原の戦いを描いた、大判6枚続きのワイド版な浮世絵。なお、江戸時代には元亀・天正以降の武家や徳川家に関係する事跡を描くことは一切禁止であったため、地名や人名は当て字・仮名等による表記といった手法が取られています(月岡芳年:敵ヶ原大合戦之図/明治元年)#浮世絵

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義経記五條橋之図 月岡芳年

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芳幾・芳年展観てきた。たのしげな妖怪がたくさんの、源頼光公舘土蜘作妖怪図とか観れてよかった。無惨絵は血みどろだーかっこいーてなった。線がかっこいいなあ。

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こちらは紀行で触れられた妙国寺の蘇鉄の怪異を描いた浮世絵。なお、当時は太閤記や元亀・天正以降の武家を描くことは禁じられていた為、人物名を仮名・当て字にして版行しています。#どうする家康
1枚目:月岡芳年:和漢百物語・小田春永(慶応元年)
2枚目:歌川芳艶:瓢軍談五十四場(元治元年)

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これらは遂に天目山で最期を迎えた勝頼を描いた浮世絵ですが、作品が描かれた時代による表現の違いに留意して御覧下さい。
1枚目:月岡芳年「勝頼於天目山遂討死図」慶応元年(1865)
2枚目:歌川芳宗(二代目)「撰雪六六談/天目山・武田勝頼」明治26年(1893)

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侍と盾の話題に便乗して、合戦での持盾や馬上での手盾の描写のある、他の方が上げていない作品を再掲。ただし、江戸期の浮世絵ですので考証等に不正確な点があるのを割り引いて御覧下さい。

月岡芳年
(1)正清三韓退治・晋州城合戦之図
(2)武田勇将血戦図
歌川芳虎
(3)武田上杉 時田合戦之図

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余談ながら、これ以前にも芳年センセは武田家関係の合戦図を題材とした作品を描いていますが、刊行時期から推定して長州征伐、或いは水戸藩の尊攘派による天狗党の乱(元治元年/1864年)に関して、主将の武田耕雲斎が同姓であることから、これに擬したと考えられるものが複数点確認されています。

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月岡芳年「長篠合戦・山県三郎兵衛討死之図」(明治元年/1868年)設楽原の戦いで討死を遂げる武田勢の将兵を描いた作品ですが、筒袖服の武士や地面に落ちている洋式銃から、戊辰戦争の何れかの戦いを時事報道作品の出版が厳禁だった当時、過去の合戦に仮託したものと考えられます。#どうする家康

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