先日の歴史探偵で橘氏の勢力圏として井手町が出てきましたが、まさにそこにあったとされる橘諸兄の別業への聖武天皇の行幸です。奈良麻呂初出かな。まだかなり若いと思います。この辺り橘氏全盛期といえるかもしれませんね。ちなみにこの年に藤原広嗣の乱が勃発します。

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よく知られた内容ですが、中宮亮の真備が玄昉を連れてきたのか、あるいは玄昉が真備を推したのかとか設定(説)が割れてる感じですが、もしくは普通に皇家が二人を引き寄せてるのか、どれにしても二人に繋がりがある感じですね。
(そして藤原広嗣の乱へ)

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あまり間の記事を上げてませんが、藤原広嗣の乱が続いている中、聖武天皇が動き出しました。この東国行幸は多分前からある程度決まってたことなんだと思うんですが、とりあえずこの勅に関しては「言い方~!!」という感想。

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ちょっと忘れてたけど天平十二年では藤原広嗣の乱が続いてるわけですが、ここにきて(印象としては)突然の聖武の東国行幸が始まります。いわゆる彷徨五年のスタート。多分前から準備してたし大事だったんだろうねとは思うけど、この勅があるのが逆に面白い。
さすがわれらが聖武天皇。

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おはロサ~ 藤原宇合さん、藤原式家の祖ですね、子孫は藤原広嗣さん(藤原広嗣の乱)、藤原薬子(薬子の変)さんと色々世間を騒がせた方々が居られます (笑) でも「承平・天慶の乱」の藤原純友さんは権勢を誇った藤原北家ですからね~ (笑)

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今日は、奈良時代の740年、藤原広嗣の乱が起こった日。大宰少弐藤原広嗣が、政権から吉備眞備らを除こうとして大宰府で叛乱を。2か月後に平定されましたが、吉備眞備も左遷されました。五反田、器

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740(天平12)年 長官 公が、#吉備真備 公と 師の朝廷からの罷免を求めて擧兵しました(新暦9/28)。然し、九州勢には朝廷軍にも属してゐた薩摩の土着民 が數多くゐた為に統率を欠き、間も無く鎮圧されました。

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【⛩藤原広嗣と玄昉】
藤原広嗣の乱で討たれた広嗣の怨霊により、玄昉は連れ去られ後日、頭のみ興福寺に転がり落ちたという奇怪な逸話がある。

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