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逃げ若武将名鑑【三浦高通】 相模三浦氏当主にして相模守護。室町幕府方の三浦氏 直義派だったため観応の擾乱の際に守護職を解任される 武蔵野合戦でも時行らに加担して鎌倉を占領するも1カ月天下に終わり逃亡。尊氏の死後に基氏の下に戻って許され、守護に復帰している #逃げ若 #逃げ上手の若君
実際のところ義詮との関係調整に苦労したとは言うものの、将軍と鎌倉公方の間で諍いが起きたことは一度もなく、面識は少なくとも基氏と義詮はお互いにリスペクトしていたとも考えられます というより観応の擾乱という実父養父の骨肉の争いを見て反面教師にしたような…… #逃げ若 #逃げ上手の若君
関東赴任後は高師冬と上杉憲顕双方が関東支配の象徴として基氏を担ぎ上げようと抗争を開始 小学生頃~青春期が観応の擾乱の渦中という情操教育的に不安になる環境で育つ ただ、鎌倉入り前の5歳の時点で真面目な直義の猶子だったからか、養父同様田楽嫌いのクソ真面目に育った #逃げ若 #逃げ上手の若君
なお北朝所属時には既に「頼“嗣”」を名乗っており、表記揺れでなければ既に父の“継”の字は捨てられている。時継は泣いていい 観応の擾乱発生時には直義方を表明しており、上杉と共に高師冬討伐に従軍 その後、上洛して打出浜の戦いの後に起きた京都での戦に参戦している #逃げ若 #逃げ上手の若君
流されてるのは人の意見ではなく南北朝のパワーゲームであり、まだ若輩だった義詮が責められる謂れはない 補佐役が全員離れた観応の擾乱後も、歴戦の執事の内ゲバに振り回された側面はあれど、北朝の権威回復に努めて室町幕府を軌道に乗せた2代目としての役割を全うしています #逃げ若 #逃げ上手の若君
みんな大好き貞宗殿の息子ですが、父が直前で亡くなって回避した観応の擾乱をモロに体験することになります 当初は師直寄りの尊氏派で御所巻にも参加しますが、勢いを増す直義派の諏訪勢に敗れ自邸を焼き払い降伏 打出浜の戦いでは直義方として参戦することになります #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若武将名鑑【小笠原政長】 小笠原貞宗の子でその後を継いだ信濃守護 観応の擾乱を皮切りに足利の内紛を渡り歩き、生涯諏訪との抗争に勤しんだ しかし、擾乱後すぐに体調を崩して息子に守護職を託したのを最後に書状が途絶え亡くなったとみられる。没年不明 #逃げ若 #逃げ上手の若君
結果論から「何もしていない」と言われる側面もある 要は観応の擾乱の勃発を止められなかったことで、師直が御所巻の準備をしている時も、その後に直義が南朝に降伏するために行方をくらませても割と呑気して放置いている 政治に全く介入しないせいで反乱の火種をスルーしてる #逃げ若 #逃げ上手の若君
【Tips】空白の10年間 尊氏が北畠顕家を討伐したことで征夷大将軍となった1338年から、観応の擾乱の発端となる御所巻が起きる1349年前辺りまでの期間 尊氏は武家の棟梁となったことで政務を全て直義や師直に丸投げして、田楽鑑賞以外のことをしていないと言われている #逃げ若 #逃げ上手の若君
ただ、如意丸の死の遠因はこの内戦を起こした直義にあることは間違いなく、彼自身が自分を責めたであろうことは想像に難くない 如意丸の死は観応の擾乱の勝者である筈の直義陣営に確実に影を落とす それは直義自身の死も間近であることを意味しているのであった #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若武将名鑑【足利如意丸】 足利直義、頼子夫婦が共に40代の時にできた待望の子供 その誕生は北朝上皇、公家、武家、尊氏からも祝福されるも、同時に観応の擾乱の火種にもなってしまう 観応の擾乱の際は数え5歳で父と共に参陣していたが、陣中の寒さに耐えられず夭折 #逃げ若 #逃げ上手の若君
【Tips】おさまれと/私もなく/祈る我が/心を神も/さぞ護るらん 観応の擾乱の渦中、尊氏が詠い松尾社へと奉納した歌 この騒乱が治まるように私心なく祈る私の心を神は護ってくれるだろう…と何の捻りもなく詠んでいる 尊氏のあまりに素朴な楽観思考がそのまま表れている #逃げ若 #逃げ上手の若君
これじゃあ観応の擾乱じゃなくて官能の情乱だよこれ(2週連続) #逃げ若本誌
ようやく逃げ若見たけど 観応の擾乱の最中に官能の情乱をするな #逃げ若本誌
山内経之「もうだめぽ……生きて帰ることはないでしょう……」って手紙を最後に消息が途切れるから、常陸合戦で戦死が有力っぽいが、逃げ若だと観応の擾乱で上杉側についてるから無事生き延びたっぽい #逃げ若本誌
長らく子を授からなかったにも関わらず1347年に妊娠して長男如意丸を出産 どれだけ若く見積もっても40代には到達していた筈なので、これもまた当時にしては相当に異例の高齢出産である ただ時期としては正に観応の擾乱が巻き起こる頃であり、それがこの夫婦の不幸となった #逃げ若 #逃げ上手の若君
貞宗は大徳王寺城の戦い後も高師冬の要請を受けて北畠親房が籠る大宝城攻略に参戦したり精力的に活躍 1345年には嫡子の政長に守護職や所領を譲りながらも政務に携わる半引退生活に 足利家の内乱である観応の擾乱が巻き起こるより前の1347年5月26日に京都で死去。享年56歳 #逃げ若 #逃げ上手の若君
道誉はこの手の偽装をかなり常習的に行なっていた節がある 尊氏と直義が対立した観応の擾乱においても尊氏派だった筈の道誉に謀反の疑いありとして尊氏が挙兵してますが、これは京都にいる直義を包囲する為に尊氏が軍を動かす名目を作る偽装と言われている #逃げ若 #逃げ上手の若君
北朝の勅撰和歌集『風雅集』で自分が選考対象外だと知って憤る辺り、最早立場を忘れてる気がしないでもないが観応の擾乱に乗じる形で挙兵 征夷大将軍に任じられ「まさか余が弓を身に付ける立場になるとはな」という和歌を詠みつつ、時行や義興を動員した大勢力で鎌倉を占拠 #逃げ若 #逃げ上手の若君
#逃げ上手の若君 中先代の乱編に入って足利方の手ごわさが段違いになるのに比例して、時行きゅんのトキメキ具合も加速していて、なんというか濃くて素晴らしい(*´Д`)ハァハァ。…にしても、こんな化物めいた足利勢が内輪もめすりゃ、そりゃ観応の擾乱だって誰も収拾不可能な大乱になりますわな。