山科言経『京都は大小の通りが碁盤の目が如く入り組み複雑怪奇だが…明智方の先手大将の斎藤内蔵助なる者は見事な指揮で軍勢を本能寺まで導き、前右府殿は討ち果たされた

内蔵助の働きは“今度謀叛随一”である』

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天正七年(1579年)五月二日

“藤宰相(高倉永孝)が香薷散(暑気中りの薬)を所望し一包送る。
前右府殿(織田信長)に祇候、父・言継死後も山科家領に別儀無しと決を下された礼を述べるが、
「顔に腫物が出来た」
との事で対面しないとの事だった”

山科言経『最近、病人が多いなあ…桑原桑原。』

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天正四年(1576年)五月一日

“安土から上洛した右大将(織田信長)を近衛殿(信尹)ら廷臣公卿衆が妙覚寺に祇候し祝賀を述べるが、右大将が

『草臥れた』

と言うので対面は近衛殿のみとなり、少数の公卿以外は皆帰った。”

織田信長『…儂が上洛しただけで雁首揃えて挨拶に来んの止めろ!』

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天正四年(1576年)四月十八日

山科言経『日野輝資殿と共に飛鳥井羽林(雅敦)を訪問、“ウトン”を振る舞われる。
 三条西の爺様…じゃない、実枝(実澄)卿らと蹴鞠に興じる』

山科言経『ずるずる。
…なんか、昨日も啜るもの系だった気がする
 蹴鞠?御相伴に与ります…あり、やう…よっと』

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天正十年(1582年)四月十七日

山科言経『冷泉黄門(為満)殿に“サウメン”を振る舞われる。
暮、冷泉殿が来訪。“詠歌大概”(定家の歌論書)について講義する』

山科言経『ずるずる。
ええ、相変わらず銭はありませんね。日記を反故紙に書くほどです
定家の講釈?よござんす、夕暮にどうぞ』

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天正四(1576)年十二月十八日
『竹内長治殿に“太平記”18・19巻を変換し20・21巻を借りる
高倉永孝殿から“諸家傳”下巻を返却される
甘露寺経元殿に“補歴”を貸す…。』

「小学生の漫画の貸し借りみたいですね」
『一緒にするな!
…公卿だから教養は無きゃいかんし、けど金は無いし…。』

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