戦国時代の公家達は屋敷に引き籠もらず、毎日の様に何処かしらへ出かけている

「言継卿記」などを見る限り、毎日ひっきりなしに公卿仲間や織田家の関係者、果ては織田信長にまで会いに行っている

本の貸し借りをしたり贈り物の交換、酒を飲むなど厚誼を重ねている

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みつぶちたまとほそかわどののしいたけ観察日記
その233 多分あれは毒キノコ
先日書いた言継卿記で書いてあるきのこですが、ニガクリタケの可能性やっぱりあるかなと思ったのですがね。
山科言継が緩和させるために薬を処方しているみたいですが、この薬がわからない。オウバクなのかジオウなのか

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みつぶちたまとほそかわどののしいたけ観察日記
その229 識別方法
言継卿記にも実際にニガクリタケまたはツキヨタケの中毒死が記載されているように(言継の実子がきのこ中毒で死亡)もしかすると毒キノコという症例が。
これって史実に基づく中毒例なのかしらと興味深く読んでいる。

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元亀二年(1571年)十一月十七日

吉田兼見「やー言ちゃん、元気してる?
大根四束(百本)送るねー」
山科言継『すまんな
 またお返しか、薬の処方させて貰うわ』

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戦国時代、朝廷の御料所や公家達の荘園は武将達に横領され捲ったが、実は足利義輝もしっかり横領している

言継卿記で名高い山科言継も義輝に横領された荘園返還を義輝の母・慶寿院に仲介を依頼している

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石山本願寺の最終兵器、“大坂之左右之大将”こと下間頼廉と雑賀孫一は討ち取られ、首を晒されたことがある

…もちろん、誤報。
織田軍が石山戦争の膠着状態に焦って偽首に騙された、あるいは虚報を流したと思われるが、一時はかなり話題になった模様

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永禄十二年(1569年)閏五月十一日

“曼殊院覚恕(後の天台座主)の御屋敷が屋根を葺き替えたとの事で挨拶に出向く
次いで甘露寺経元を訪ね、改元などについて話し合う”

山科言継『三好匠作殿の決めた永禄もはや十二年、そろそろ…え、近くに破れ奉行来てるの?』

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元亀二年(1571年)五月十日

“真如堂蓮光院(足利義輝の菩提所)に招かれ、来る十九日の義輝七周忌について話し合う。儀式の音楽については四辻家(家業が和琴・箏)に申し渡す。”

山科言継『まあ、奇天烈な公方様でしたが…京雀達の人気は今も上々な事てすし、御弔いして罰当たらんですやろ』

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永禄十三年(1570年)五月三日

“織田弾正忠殿(信長)を訪問、林佐渡守の取次で徳川家康・畠山高政・松永久秀殿と逢う。話合いの仔細説明を受け、徳川殿他三名に飯が振る舞われる”

徳川家康「言継卿も御健勝で何より(もぐもぐ」
松永久秀「ささ、一献」
山科言継『お、おう(なんだこの面子)』

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永禄十三年(1570年)四月三十日

“夜十一時頃、織田信長が越前攻めから京都に帰ってきたらしい。
武家奉公衆の松井康之殿が越前で怪我をしたらしく、愛州薬(火傷や打ち身の薬)が欲しいというので一包処方する”

山科言継『弾正忠殿も運が良い、鰐口を逃れなされた
はい、愛州薬。御大事に』

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永禄十一年(1568年)四月十五日

山科言継『午後二時頃、伏見殿(伏見宮貞康親王)が亡くなられた。御歳二十二歳のご早世は、言葉に出来ない…言葉に出来ない』

織田信長「嬉しくて?」
山科言継『悲しくてに決まっておろう、儂ゃ小田和正か』
織田信長「オフコース」
山科言継『もうええわ』

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永禄十三年(1570年)四月十四日

山科言継『蓮光院(烏丸光康?)の要請で織田信長殿に会うも“今日、がっぺむかつく事があった!!”というので帰る。
 路上にて武井夕庵殿(信長の右筆)に会う。禁中見物に付き合う』

武井夕庵「災難でしたなあ言継卿…こんな日もありますよ…ささ、まずは一献」

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『あの方が自害する様でしたら、私も一族も悉く後を追いますからね?』

 織田信長が、斎藤義龍未亡人からとある壺を取り上げようとしたら

「…壺は紛失しました。家探しをするなら自害します!」

 と反駁され、それを聞いた"信長本妻"が信長に抗議した際の言葉。

 …つおい(小並感

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