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この尊氏の降伏を受け入れ、北朝が潰される形で南北朝統一「正平の一統」が成立 ただ、直義との交渉でこの降伏がお互いにとって一時しのぎに過ぎないと学習した後村上天皇は直義が死ぬと同日に京へと凱旋 楠木・北畠軍を京周辺へと動かして奪還作戦の準備をする #逃げ若 #逃げ上手の若君
直義の降伏を受け入れ、高師直の討伐の綸旨も与えた後村上陣営ですが、政治思想としては北朝側を崩さない直義と対立 偽りの降伏だったことも含めて直義は南朝の信頼を損ねて南北朝統一も破談に やがて直義と尊氏の対立が再燃すると今度は尊氏が南朝に降伏を申し入れてくる #逃げ若 #逃げ上手の若君
即位後は北畠親房をブレインに打倒北朝を目指す 『太平記』では、楠木正行が玉砕覚悟で出陣を決めた際に御簾から出てきて「命を粗末にするな」と窘めるなど、父帝と正成とは対象的に描かれる 忠告虚しく正行は戦死して追い詰められるも、直義の鞍替えという好機が訪れる #逃げ若 #逃げ上手の若君
親王時代から波乱の人生であり、年少ながら北畠軍の名目上の大将として出陣 顕家戦死後に伊勢から奥州に向けて出航した際も嵐に見舞われ結城宗広と共に伊勢に戻されます その後は万が一の時に帝位を継げる者が他にいなかったため再出航を断念して吉野へ帰還。天皇となります #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若武将名鑑【後村上天皇】 後醍醐天皇の第7宮にして第97代天皇 1339年の後醍醐天皇危篤時に譲位され、南朝の2代目天皇となる 京奪回のために何度も鎧を着込んで戦場を駆け抜けた姿が目撃されており、日本創世記たる神武以来にして最後の「戦う天皇」である #逃げ若 #逃げ上手の若君
義興が無念の死を遂げた後には義宗の活動記録すら定かではなくなり、最期もよくわかっていない 1368年に上杉憲顕の息子らに敗れて戦死したとも、生き延びて僧侶になったとも、四国で余生を過ごして1405年まで生きていたとも伝わる 人生の最後が「?」の人物となりました #逃げ若 #逃げ上手の若君
直義死後は新田家を挙げての総力戦に挑み、小手指原で尊氏と対戦 義宗は敗北しますが、義興を別動隊に回しており、そちらが鎌倉の占拠を達成するなど知性が光る その後、義宗は笛吹峠で再び敗北して越後へと脱出。武蔵野合戦における新田家の出番は終わり、越後で力を蓄えます #逃げ若 #逃げ上手の若君
『太平記』では庶兄の義興が血気盛んなのに対して、義宗は冷静沈着なストッパーとして登場する 義興に尊氏を討つことを薦められても「いや、父の義貞が戦死した時も尊氏は打算抜きに敬意を払ってくれたから……」と断っている しかし、結局折れて尊氏討伐に赴くことになります #逃げ若 #逃げ上手の若君
逃げ若武将名鑑【新田義宗】 新田義貞の息子で義興の弟 母親は常陸名門小田氏の娘真知であり、神主の娘を生母とする兄の義興とは家格が違うため、三男にして新田家の家督を継ぐことになる イケイケドンドンな新田の血筋の中では慎重派とも伝わる知性派の新田。義興≠義宗 #逃げ若 #逃げ上手の若君
ナレーションで悲劇予告するのやめません? #大河べらぼう