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徳川家康『今晩は、徳川い(ry
俗に“✕✕藩○○万石”というのは江戸幕府が諸藩成立時に定めた表面上の石高で、官職や江戸城内の待遇がこれで決まる
実際に収穫できる石高を内高といい、新田開発はこれに含まれる
なので江戸も半ばには表高より内高が高くなる
どの藩も収入増に必死だったのだ』
徳川家康『今晩は、徳川家y(ry
江戸幕府は儂の死後、五代綱吉の頃まではまだ景気も良く放漫経営でも通っていた
しかし商業が発展し米の価格に対する物価が向上すると武士の家計簿は年々苦しくなっていった
幕府も下々の武家が苦しいのは知っていたから、こんなお目溢しもしていたのだろうな』
@Olt_Calius 徳川家康『井伊は固いことを言えば直孝が嗣子でないからどうだろうな
江戸時代の武家は栄養学の未熟さから他愛もない事で病気になり、夭折することも少なくない
誰とは言わんが謀オットセイが養子をばら撒いたので先祖を辿ると儂が居る、なんて藩もあるからな
大身の藩はよほど用心したのだろう』
徳川家康『今晩は、徳川家康で(ry
この“実年齢から逆鯖を読んだ歳”は公年と呼ばれる
幕府も江戸中期を過ぎると無嗣断絶による浪人増加が不平不満や犯罪の温床になるのを憂いていて、この様な仕儀を黙認していた
なお、武士は出生届を出す義務が無かったので年齢を誤魔化すのは簡単だった』
徳川家康『今晩は、徳川家康で(ry
そも、中間や武家奉公人は条件の良い所へと流れるため確保が難しく、参勤交代の時だけ体面を保つため臨時で集める事が多かった
しかし桜田門外の変後は“厄介”…即ち武家の次男三男で腕の立つ者が行列に雇われる事が増えた
坂下門外の変が失敗したのもこれが原因だ』
徳川家康『こんばんは、徳川家康です(
この“給料は必要経費込み”があるため優秀な人材を抜擢するなら加増が必要で、八代将軍吉宗の頃にこれを行える“足高の制”が出来た
地位に併せて臨時に加増するという制度だったが、御役御免になっても支払われており事実上の加増だったようだがな』
徳川家康『付届けは交際費なので、上は大名から下は町の岡っ引きまで発生する
中村主水など南北奉行所の小役人でも受け取れることが出来、筆頭与力の田中さんになるとその額は大身旗本の収入に匹敵した
まあ、武士は人件費(彼らの生活費含む)がバカ高いから丸儲けにはならんのだがな』
@dousetumiki 宇喜多秀家「解せる」
三好実休「解せぬ」
三好長治「超解せぬ」
加藤清正「解せぬが我慢もしろ」
#法華宗と愉快な仲間たち