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赤髭公ばるばろす。さんのイラストまとめ


戦国歴史と三好長慶と史跡を愛するおっさん。怖がりで恐怖画像や動画は苦手なのに怪談は大好きな変わり者。バース掛布岡田以来のライトな虎党。WWF時代のアメプロファン。
 ハイエース乗り。昔は車中泊好きだったが今は旅行する気力もない。
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天正十年(1582年)四月十七日

山科言経『冷泉黄門(為満)殿に“サウメン”を振る舞われる。
暮、冷泉殿が来訪。“詠歌大概”(定家の歌論書)について講義する』

山科言経『ずるずる。
ええ、相変わらず銭はありませんね。日記を反故紙に書くほどです
定家の講釈?よござんす、夕暮にどうぞ』

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永禄十一年(1568年)四月十五日

山科言継『午後二時頃、伏見殿(伏見宮貞康親王)が亡くなられた。御歳二十二歳のご早世は、言葉に出来ない…言葉に出来ない』

織田信長「嬉しくて?」
山科言継『悲しくてに決まっておろう、儂ゃ小田和正か』
織田信長「オフコース」
山科言継『もうええわ』

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そういえば織田信忠さん、戦国時代あるあるで“勘九郎”が“菅九郎”って記載されてたりするんですよね

…あっ(

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問・柴田勝家『刀で個人戦の多対一が勝てぬ!
奴輩、此処ぞと言うときに予想外の動きで背後に回るわ挑発するわで始末に終えん!

答・前田慶次「何、苦無を使って遠距離から攻撃すれば良い
 剣豪に喧嘩を売るとかなら兎も角、山賊程度なら腕っ節次第では一撃で倒せるぞ」

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永禄十三年(1570年)四月十四日

山科言継『蓮光院(烏丸光康?)の要請で織田信長殿に会うも“今日、がっぺむかつく事があった!!”というので帰る。
 路上にて武井夕庵殿(信長の右筆)に会う。禁中見物に付き合う』

武井夕庵「災難でしたなあ言継卿…こんな日もありますよ…ささ、まずは一献」

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三好宗三…討死
三好宗渭…興福寺坊官「なんか悲惨な死に方したらしいよ」
三好長逸…行方不明
三好長治…逃亡中に信頼してた領民が細川真之方に居場所タレ込んで自刃
三好義堅(十河存保)…上司が無理な渡河作戦して討死
三好笑岩…詳細不明

三好長慶『…お祓い受けた方が良いな』
興福寺尋尊「断る」

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天正二年(1574年)四月十三日

前年から六角承禎が籠城していた近江石部城が織田信長軍により陥落
 承禎は夜陰の雨に紛れて逃亡。

織田信長『お前ら何遍蜂起・脱出してんだ
デビッド・カッパーフィールドか!』
六角承禎「六角は滅びぬ、何度でも蘇るさ!」
六角義治「これが最後ですがね」

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徳川家康『石礫なんかに、負けたりしないッ!!(三方ヶ原台地へ突撃、鶴翼で包囲殲滅を目論む)』
小山田信茂「そーれ(徳川軍の片翼に石礫連射)」

徳川家康『石礫には勝てなかったよ…(』

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織田信長『長兵』
羽柴秀吉「細川幽斎殿」

なぜそう思われますか?

織田信長『あいつ、突撃してきた暴れ牛を涼しい顔して角掴んで投げ飛ばす様な奴だぞ』
羽柴秀吉「無礼を働いた門番の手首握り潰したって聞いて、さもありなんって思った」

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石田三成『尚、儂の弔いをしてくれておる大徳寺三玄院は一般非公開だぞ

 大徳寺内塔頭は期間限定公開される場合もあるが三玄院は全く公開されぬ
 儂の冥福を祈るのなら、高野山の奥の院か一族の菩提寺である京都妙心寺塔頭・寿聖院を訪ねよ
 寿聖院の公開時期も良く確かめるのだぞ』
https://t.co/7lirj0ZlMP

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