//=time() ?>
天正七年(1579年)五月二日
“藤宰相(高倉永孝)が香薷散(暑気中りの薬)を所望し一包送る。
前右府殿(織田信長)に祇候、父・言継死後も山科家領に別儀無しと決を下された礼を述べるが、
「顔に腫物が出来た」
との事で対面しないとの事だった”
山科言経『最近、病人が多いなあ…桑原桑原。』
#言経卿記
@yrms9 十河一存『長慶兄者は阿波芝生城で生まれたらしいから四国勢で問題無いとは思うが…四兄弟揃いも揃って四国の外で死んでるのが何とも言えんな』
#野口冬長を兄弟にして槍場の義戦に出た野口肥前守と同一人物にするなら彼だけは阿波で討死
天正四年(1576年)五月一日
“安土から上洛した右大将(織田信長)を近衛殿(信尹)ら廷臣公卿衆が妙覚寺に祇候し祝賀を述べるが、右大将が
『草臥れた』
と言うので対面は近衛殿のみとなり、少数の公卿以外は皆帰った。”
織田信長『…儂が上洛しただけで雁首揃えて挨拶に来んの止めろ!』
#言経卿記
永禄十三年(1570年)四月三十日
“夜十一時頃、織田信長が越前攻めから京都に帰ってきたらしい。
武家奉公衆の松井康之殿が越前で怪我をしたらしく、愛州薬(火傷や打ち身の薬)が欲しいというので一包処方する”
山科言継『弾正忠殿も運が良い、鰐口を逃れなされた
はい、愛州薬。御大事に』
#言継卿記
石田三成『賤ヶ岳の戦いと言えば七本槍だが、儂と刑部(大谷吉継)もこの戦で槍働きし敵の首級を挙げておる
なので儂も刑部はノンキャリ(現場=戦場の苦労を知っている)という事になる
まあ、儂の手柄は“佐吉違い”…桜井佐吉家一の手柄と混同したのでは、なんて話もあるがな』 https://t.co/g2qBySkG7b
上杉謙信『え、信玄君死んじゃったの!(箸を落として号泣
好敵手を無くした!三日喪に服して歌舞音曲を禁じる!勝頼君に手紙書く!!!』(日本外史)
上杉謙信「いや、儂は信玄心底嫌いなんだが
信長ー、あいつ死んだらしいから挟撃作戦しようぜ!俺は越中、そっちは信濃なー!!」 https://t.co/f6QB8TLroA
羽柴秀吉『後残り三回、守り抜けーッ!!!』
雑賀孫一「誰だよ敵の四番バッターが火蓋切らずに引き金引いてるとか言った奴は!!!」
徳川家康「逃すなーッ!!!
此処が我らの小牧長久手と心得よ!」
#阪神タイガース #猿と狸のバカ試合 https://t.co/b48RIgOHMh