//=time() ?>
1814年10月1日、ナポレオン戦争後の欧州の秩序回復を図る国際会議「ウィーン会議」が開幕。各国の利害が錯綜して議事は難航、舞踏会や宴会が多いわりに進捗を見せない様子は「会議は踊る、されど進まず」と揶揄された。フランス全権タレーラン、または主催者メッテルニヒの秘書の発言だったとされる。
208年9月26日(建安13年8月29日)、孫権の使者に曹操を誹謗中傷する発言をしたという罪で、「建安の七子」の一人・儒学者の孔融が逮捕され一族共々処刑。孔子の子孫である孔融の処刑は曹操が後々まで非難される理由の一つに。しかし後に魏の初代皇帝となる息子の曹丕は孔融の詩文に心酔したという。
1864年8月20日、禁門の変。前年「八月十八日の政変」により京都から追放されていた長州藩の軍勢が、京都守護職を務める会津藩主・松平容保らの排除を目指して挙兵。畿内では250年ぶりとなる大名同士の交戦により京都市中は戦火で約3万戸が焼失。長州勢力は敗北し、京都では「一会桑政権」が台頭する。
1014年7月29日、クレイディオン峠の戦い。皇帝サムイル率いるブルガリア帝国軍が東ローマ帝国軍に大敗。以降、第一次ブルガリア帝国は衰退に向かい、4年後に滅亡。なお、東ローマ皇帝バシレイオス2世は捕虜数万人を失明させて送り返し、それが原因でサムイルはショック死したと伝えられている。
1718年7月21日、オスマン帝国とオーストリアおよびヴェネツィアが墺土戦争の講和条約であるパッサロヴィッツ条約を締結。オスマン帝国はオスマン帝国は1699年カルロヴィッツ条約で得た領土の大半を失い、バルカン半島において後退。帝国の国家的退潮とアラブ人の自立傾向が背景にあった。
987年7月3日、西フランク王国において、ユーグ・カペーがカロリング朝断絶により王位を継承、カペー朝を創設。カペーは888年にノルマン人撃退の功績によりカロリング家以外で初の王を輩出したロベール家の支流。この王位継承がフランク王国時代の終わりと「フランス」誕生の起点とされている。
1569年7月1日、ルブリン合同により、同君連合だったポーランド王国とリトアニア大公国の連邦国家「ポーランド・リトアニア共和国」が成立。16~17世紀の欧州で人口、領土ともに最大の国家であり、一時はロシアを制圧化におくほど強勢を誇ったが、18世紀の3次にわたるポーランド分割で消滅した。
A.D.789年6月30日(延暦8年6月3日)、巣伏の戦い。征東大将軍・紀古佐美(きのこさみ)の征討軍が衣川(現在の岩手県平泉付近)で大規模渡河作戦を展開したが、蝦夷の首長アテルイの軍勢の反撃に遭い大敗。別将・丈部善理ら戦死25人、溺死1036人もの大損害を出した。