//=time() ?>
写真の出現というのは、実は人間の深い心の底からの出現であって、それ以前の芸術の構造とは、段違いに深いものの出現であったのです。 もはや、手描きでなければ、《芸術》では無いなどと言うレベルでは無いのです。
前に書いたので、くり返しませんが、《芸術》というものには、「芸術的節約」というものがあるのです。この事が重要なのです。 レオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザも、ピカソも、シンディシャーマンも【作品密度50】ですが、梅沢和木氏の作品は、【作品密度100】です。これはまずいのです。
ので、2つの梅沢和木氏のトークも聞きに行っていますが、書き込んでいくことに喜びがあるのですね。そしてこの描き込みに、観客も反応しているのです。こうした細密に書き込まれた作品に、観客が引き付けられて、その為に作家はさらに書き込んで、地獄に落ちていくのを、私は、何人も見ています。
梅津庸一さんも、梅ラボの 梅沢和木さんも、磯村暖さんも、「令和」になると、危ないな・・・古くなる? まあ、「令和」には《象徴界》の復活の面があるから、とにかく、どうなるか分からない。時代はかわるのか?
しかも《想像界》《象徴界》の2界だけの絵画であって、《現実界》が無いのである。こういう構造は、18世紀の新古典主義の絵画と同一である。つまりダヴィッドや、アングルと、同一の構造をしている美意識なのである。であるから、新古典主義の先駆者であると考えるべきである。
【今日の作品】 《無神論のための芸術》というシリーズの、 キリコの「愛の歌」という作品を切断したものです。制作年は1914年で、第一次世界大戦の始まった年です。 キリコの大回顧展は、ミラノまで行って見ています。キリコは、偉大なアーティストでありまして、巨人です。
【今日の作品】 《無神論のための芸術》というシリーズの、 デュラーの『聖母子』(1505年)という作品を切断したものです。
【今日の作品】 《無神論のための芸術》というシリーズの、 フィリッポ・ブルネレスキの『聖母子像』(1405年) という作品を切断したものです。 フィリッポ・ブルネレスキは、ルネサンス初期のイタリアのフォレンツェの彫刻家で、ルネサンス最初の建築家です。
浅井忠の作品を「やに派」と名付けて、差別するというのは、日本の中にある、いや日本だけでは無くて、世界中にあるレッテル貼りと、差別主義です。この作品を見て、「やに派」というものの幅の広さを、そしてこの作品の空間が、グリンバーグの言う様な平面主義ではないと言うことも知ってください。