平和教育登戸研究所資料館さんのプロフィール画像

平和教育登戸研究所資料館さんのイラストまとめ


明治大学平和教育登戸研究所資料館の公式アカウントです。資料館からの情報を発信していきます。
旧日本陸軍登戸研究所について展示をしている資料館 建物は当時の研究所第二科研究棟

開館日時:水曜~土曜・10時〜16時 入館無料
お問い合わせは[email protected]または044-934-7993
meiji.ac.jp/noborito/index…

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毒物の効果が出るまでに一定の時間があったため,使われた毒物は旧陸軍が開発した特殊な毒物ではないかと警察は疑い,捜査を始めます。特に登戸研究所が開発した「青酸ニトリール」ではないかと疑いがもたれ,開発した元所員をはじめとする多くの関係者が事情聴取を受けることとなったのです。

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帝銀事件とは何か??なぜ登戸研究所に関係があるのか??1948年1月26日に椎名町(東京)の銀行で発生した集団毒殺強盗事件「帝銀事件」。犯人は赤痢の予防薬と偽り,毒物を銀行員たちに飲ませます。飲ませた薬には第一薬と第二薬があり,第二薬を飲んだのちに銀行員たちは次々と意識を失いました。

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外出自粛中のご家庭の団らん用にぜひどうぞ。「あがり」と同時に「登戸研究所」への興味が止まらなくなるはずです!開館再開後、お待ちしております。(A3サイズで印刷できます。)#すごろく

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明治大学中野キャンパスがある場所には陸軍中野学校がありました。中野学校は諜報活動の人員を養成する極秘機関。同じく極秘の登戸研究所では彼らが使う器材を開発、一部の所員は教官として中野学校に出入り。登戸研究所製偽札を運搬したのも中野学校出身者でした。

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 第201回
女学校を出た後、兄の薦めで同じ登戸研究所に勤務した。兄嫁も勤務していた。庶務科の広くて人が大勢いる部屋で仕事をした。毎日、小田急線沿いの幅1m位の細い道を通った。研究所で風船爆弾を作っていることを兄から聞いたが、話してはいけないと言われた。(16才、女)

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 第190回
住んでいる地区の人たちは軒並み登戸研究所に働きに来ていた。私の家は姉二人と私の三人。隣家は同級生と姉の二人。私の分家では同級生が一人。徴兵逃れで守衛になった人も多かった。ただ仕事のことについては一切口に出したことはありません。
(15才、見習い工員)

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 第176回
風船爆弾には発信機が付いている。今どこを飛んでいるか、発信音を傍受していた。でも4時間位したら発信音が聞こえない。おかしい。気球が落ちたのではないかといろいろ考えたが、蓄電池が4時間しか持たないためだった。(15才、男)
【注】試射時のこと

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 第150回
16歳の時に、向かいに住んでいた将校の紹介で登戸研究所に入った。憲兵に調べられることはなかった。入所してまずは敬礼の練習、外部に話してはいけません、という教育を受けた。(16才、女)

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 第140回
残業する人もいたし、泊まりこむ人もいたけど、私は大体帰った。ただ、ライター型の拳銃の時は徹夜で実験させられた。(20代、工員)

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 第135回
風船爆弾にぶら下げる爆弾の中の火薬を計る作業をしていました。天秤で両方がピッタリ合わないと不合格になるので、目を凝らして両方が真っ直ぐになるまで一所懸命にらんでいたのを記憶しています。(16才、女学生)

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