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感覚は一般に、各々それ自体判明な凝集のように思えるのだが、ある感覚をまじまじと凝視し細部を確認しながら「こうなっているよね」と言ったり、別の感覚と見比べながら「ここがこう違うよ」などとは実は言えない。凝集のガイドとしての絵画はそれができるかのように錯覚させる。
Wassily Kandinsky
眠っている人がどこか植物に似てみえたことがある。人を軸に植物を属性とみると冷たく静的な不気味さが際立つのだが、植物を軸に人を属性とみると眠っている姿は起きて対面するそれとは別種の微細に外を感受しダイナミックに生えそびえる(寝相の生育)ような活性した趣きを湛えてくる
Pablo Picasso
モチーフによってフレームの構造をなぞることとモチーフ間のサイズの関係は、ただフォーマルなだけではない問題を(彫像や人形が導入されるとなおさら)孕んでいるように思う。
Raoul Dufy “Statue with Two Vases” 1908
Marsden Hartley “Santos, New Mexico” 1918-19
ハートレーはセザンヌやキュビスムだけじゃなくニューメキシコのイコン画にも影響されてたからそのフレームの扱いを踏襲してるところもあるはず(聖人の後光が実体化されてもう一つのフレームになっている)
Georges Braque “Trees at l'Estaque” 1908
“Retablo” United States: New Mexico, ca.1698
揚げ物の衣を剥がすように剥き去ってしまえばいい(または脱皮?)と直情的に思うのだけど、そもそもそいつが剝いても剝いても一向に中身の現われない玉葱状の奴だったらどうしようという不安は拭えず、拭える不安であればそれは不安ではなく芯がないから不安と呼ぶのだとなぜか会得する。
Paul Klee
ブラックが(ハイデガーの影響込みで)時を経てアンフォルメルに近づくというのはまあわかるしそもそもの関心から言っても妥当だろう。だが逆に、フォートリエがキュビスム化するとしたらどういう必然性があるのかという問いを立て、形骸化にもみえる後期の仕事を再考することも可能ではないだろうか。
小石を掌にのせまるっと包み込んでいても、手自体が厚みをもっていることも、指と指のあいだに隙間があることも忘れてないという有り様。握りしめた石をどうしようもなく感じてしまうけれど、手の甲のほうに意識をやれば、それはひょっとすると今まさに触られている石の表面なんじゃないか
Naum Gabo
たとえば「あらゆる宇宙の写真は宇宙ポルノである(でしかない)」という言い方はアリかナシか。アリだとすれば、こっちのほうが個人的にはよほど由々しき事態。あられもない姿態を過剰彩色施されて、ドヤ顔でみせつけられているだけだとしたら。