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そこに静謐だが決して停止ではない時間経過を感じるなら、これもある種の映画と呼んで差し支えないはずだ。コンポジションやデフォルメとして見たら凡庸。絵画や彫刻の「実際は止まっているが動き出しそう」という感覚とは違う、視線や手の身振りの抽出による、映画的な運動の組織化。
Ghérasim Luca
ムッソリーニに影響を与えもしたイタリア・ファシズムのイデオローグの一人ユリウス・エヴォラ。彼は他方で、未来派やダダイズムに感化されてモダン?な抽象画を描いてもいる。その神秘主義的な優生思想と、こうした画業を繋いで論じている研究があるなら、誰か日本でも紹介してほしい。
Julius Evola
イタリア未来派第二世代のプランポリーニ。「航空絵画(Aeropittura)」を標榜した者が、なぜ、空の表象や飛行機のスピード感よりも、カサブタのように剥離した大地の肌理を描くことに拘泥するようになったのか。地表も山脈も、空中からのほうがかえってよく見えたから?
Enrico Prampolini
ホッパーの形態感が(徐々におおらか且つ不穏になりつつも)一貫していると言えるのは、その陰影にリテラルな黒が残るような独特なヴォリュームの捉え方だけでなく、「地」に当たる空や海の一定の距離が保たれたその平板さ、つまり空気の通り方や抜け方にあるような気がする。
知覚されようとされまいとあり続けてみえるものは強い。それは包まれる安心感と脅かす不安感の両方を与える。例えば太陽(や月)が単にあるのではなく、あり(照り)続けているという感じをどう描くか。ダヴの波紋のようなグラデーションの多用はこの両義的な持続感に関わっていそうだ。
Arthur Dove
「主観のなかにあるものはすべて客観のなかにもあり、しかもそれ以上のものである。客観のなかにあるものはすべて主観のなかにもあり、しかもそれ以上のものである。だからわれわれは二重の意味で見離され、かつ守られている。」(ゲーテ)
Paul Klee
それにしても、絵の中で眠っているのと死んでいるのは紙一重…。眠っているのかただ横たわっているだけで起きているのかも判別困難なこともある。どちらにしろ絵なのに(写真と違いその奥に事実が控えていないのに)だからこそ、その不明瞭さの立ち現われ方に、画家の技量と全意図とが凝縮される。
フルーツとそれを(運ぶために)梱包する箱と梱包材とがバラバラになった状態を一画面に描くこと。梱包材は移動の際中身が傷まないよう軟らかく固定するものだが、詰め物としての充填作用から解放されたそれは、画中でアンフォルムな存在感を帯びはじめている。
Leon Underwood “The Fruit Unpacked”