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35話はベルゼブモンがマクラモンというデーヴァ、更にタオモン、ラピッドモンの完全体パワーをロードし最強となる。デジタル・ハザードを引き起こす程のメギドラモンを倒すにはそれだけの前提が必要なのだ。
レオモンの死とジュリの「運命」については、既に当アカウントで触れているのでそちらを参照して戴きたい。ここからのスレッド↓。
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映画『デジモンアドベンチャー02 デジモンハリケーン』でテリアモンとロップモン(当該作ではグミモン・チョコモン)を最初に描いたのが吉田さんだったので、ロップモン初登場回をお願いする事に。
私は小難しい設定を作ると思われていたかもしれないが、実は逆なのだ。なるべく物語に自由度を持たせたいが為に、独自な「世界観」という縛りを無くしたかった。「世界観」というものに独自性を持たせるのは困難であるし、その「世界観」のルールや法則などに縛られたくない。
ジェンや留姫がサングラスをするのは、デジタル・フィールドに突入する時の眼球の保護であり、何かの主義主張ではなかった(「3 Primary Colors」歌詞への一応の異議申し立て)。この霧設定は、デジモン同士のバトルを一般人に見せないという作劇上の必要もあった。
貝澤さんや角銅さんは自ら手をつける事で、ユニークな映像表現を自身の演出話数では導入を可能にしていたが、シリーズでは何かシンボリックなものが必要だった。荒牧伸志さんに相談して得られた解決策が、リアル・ワールド球が空に浮かぶ荒野のイメエジだった。
最近になって本アカウントを知った方は、是非Profileにリンクされたサイト Digimon Tamers Updateを参照下さい。私の発言のまとめは、他の方が作成されたものもあって、それらも一元的にまとめています。
ヴァンデモンのテーマ曲がバロック調室内楽なのは、セーラーでも近いアプローチはあったもののこちらの方が本気モード。正統怪奇映画調として角銅SDの指定があったんでしょうか。
ジュリは父と継母にレオモンを引き合わせたのだが、父親は(当然ながら)仰天し怒髪天を衝いて頑なに会話を拒んでいた。だから41話で迎えにも来なかった。尺の都合で削られた情報は後でフォローするつもりだったが、その契機がないまま41話に行ってしまった。
セミリタイヤした他人目線で昨今のエンタテインメントを眺めると(特にハリウッドの)、ルーティンにがんじがらめに縛られているか、そもそもルーティンを知らないものとの二極化している印象を抱く。ルーティンはエンタテインメントの基礎なのだ。