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(私こんなところで何やってるのかしら…)
「おまえら、そんなんじゃ死後やっていけないぞ」
かつて昭和の日本のガキ向け文化で「愛」がブームとなり、やたら叫ばれた時代があった。これを戦後の反戦平和、ヒッピーカルチャーの流れで解釈していたのだが、むしろ肉食えるようになったせいではないかと最近では考えている。やっぱサバとか大根食ってると愛って気分じゃねえよな。
漫画的表現の中心をなんとなく「誇張」と見るが、多分それだけでは足りない。「逸脱」が必要である。「なにそれ」という意外性、デタラメさがないとまず注目を集めない。冷静に見るとなんなんだコイツ。企画会議でこんなデザインはまず出てこない。どこらへんが未来のロボットなんだと言われて終わる。
「このアラビアンというゲームをファミコンに移植するんですよ。スーパーアラビアンとして」 「はあ」 「だから新しくスーパーな感じのイラストが欲しいんですよね」 「スーパーな感じって…」 「なんかこうもっと頭身を上げてリアルに…」 「やってみましょう」
(何度でも語り継ぎたい)有名な「アナと雪の女王」で、主人公の姉のエルサというのが「ありのままに」と歌いながら雪の女王に変身するのだが、これが日本人的にはどう見ても八代亜紀みたいなのである。なのでアメリカ人の目指す「ありのまま」というのは八代亜紀なのだと思うことにしている。
「へっへっへっ、兄さん。人の女房に手を出そうったってそうは行きませんぜ」
今の我々がデジタル上のレイヤー加算合成でやるテクニックをアナログ水彩のにじみ、ぼかしで実現している。しかも恐ろしく速くこれができたはずである。表現としても粗はあれどアナログのほうが見応えがあると思う。なにしろレイヤーもアンドゥもないのである。筆にこもる気迫が違う。すげえ曲芸だ。
信仰はそれ自体無力である。多くは裏切られ、形をなさず報われない。しかし物事の中心にはおそらく強烈な信仰が必要なのであり。だからこそ形をなした信仰の結晶に人は賛嘆を惜しまない。
この種のビジュアルの作られた当時、これは要するに「気分」だったのである。作り手はまだ豊かな時代の中にあって、学生運動やら空襲やらの感傷をそれらしくまとめたのだ。今我々の前にはこれらが身も蓋もないリアルとなって迫っている。さてそこで我々はどんなビジュアルを次の世代に残せるだろうか。