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左の図。これ余計なお世話だけど、二口くらい食べたらすぐ飽きるんじゃねえかな。アメリカ人は苦にならないんだろうか。ならないのかもしれない。あいつらマカロニチーズ無限に食うもんな。あるいは日本で言うところの右の図かもしれん。おせちでここまでニコニコしねえだろうという。
「プリキュアの義務的に細かいステッキ」の対局にあるのが「零士のメカゾーン」だと思う。こっちはただひたすらに好きで無限に描きこむのである。松本零士は本来こういう人だったと思う。ただ、どっちが幸せなのか実はようわからん。
かつて存在した「フラットな塗り」「均一なグラデーション」「スクリーントーンの質感」などの商品価値については、真鍋博が体現しているように思う。それぞれ技法としてコモディティ化してしまったが、同じ技法を手に高揚したであろう真鍋博の作品性は、フェルメールの青のように失われないのである。
「アムロ! メタスなんかカッコよく描いてもしょうがないと思わないの?」
(ファザナドゥで敵を倒すと出てくる謎のアレ)
モチーフとしての宇宙は、今も通俗的娯楽の世界で人気である。ただもはやそこにあるのは「途方も無い」「空想的な」という意味だけで、かつての「これからの」「挑戦すべき目標としての」「正しい」といった意味は失われている。それは冷戦と宇宙競争の時期にだけ与えられた意味だったのである。
ルビンの壺を想像してほしい。たとえば鉄人28号で描かれていないもの、ウルトラマンから削ぎ落とされているものがあって、宇宙戦艦ヤマトは目に見えないそれの影のように見える。直接的に描けないから、逆像や影として存在するのである。その我々だけが実感し得る奇妙さをぜひ反芻してほしい。
「離せ! こいつはメガドライブをバカにしやがったんだ!」
(この女…ラピュタから来たにしては妙にケバい…)
SG-1000の「ガールズガーデン」は、内容的には中さん&Hiro師匠という普通によくできたアクションなのだけど、なんといっても箱絵の印象が強烈で、オレ3回も絵で描いている。こうして並べても全部悪意しかない。ひどい絵描きだよな。