竹中半兵衛は羽柴秀吉の“家臣”ではない

半兵衛は姉川の合戦後の元亀元年(1570年)七月、織田信長から秀吉に“与力”として付けられた言わば
“本社からの派遣社員”
であって肩書は秀吉と同じ信長直臣

 その立場は、半兵衛が逝去するまで変わらなかった

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江戸幕府将軍家の直轄領…約400万石、佐渡など金山地を含む

豊臣秀吉の直轄領…約222万石、佐渡や出石など金銀山を含む

室町幕府将軍家の直轄領…応仁の乱後は無いに等しい

足利義輝『無理ゲー過ぎる』
山科言継「たからってうちの荘園横領すんなし」

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女性の首は血祭り(首実検)に掛けられないので、髭も生えていない中性的な美少年が討ち取られると性別で揉める事があった

徳川家康の言では
“首級の瞼をこじ開けてみて、瞳孔が正面向きなら男、上向きならば女”
との事で、後確認で見事的中していたらしい

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『雑兵物語』では
“戦場は飢饉と思え、乞食の如く身持ちを固くせよ”
と戦場の食糧難を説いている

配給の兵糧は油断すると味方にすら盗まれる。兵糧に頼らず食糧や水分確保に留意せよと続く
塩と味噌切れは水切れより辛く、梅干しは眺めると口渇を癒やすという

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例外として“尚武紋”と呼ばれる縁起や霊験・加護を願って武具に入れる紋がある
鷹の羽・兜・軍配・釘抜、右三巴・加藤清正で名高い蛇目紋などで、蛇の目は弓弦の予備・弦巻が由来

本妙寺蔵の伝加藤清正蔵の蛇目紋長烏帽子兜は後世になって追加されたものらしい https://t.co/jEZck5VS0W

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筒井順慶が山崎合戦の際、洞ヶ峠まで出陣して羽柴・明智いずれが勝つか日和見を決め込んだ、というのは濡衣

実際の順慶は大和郡山城で籠城し中立を決め込んだが、関係者が後世『増補筒井家記』を編纂した折、良かれと思って改竄した内容が広まった結果である

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斎藤利三は山崎の合戦で野戦を避け近江坂本籠城を提案していたが、光秀に却下されている

太田牛一「悪手過ぎる
話の出元が甫庵太閤記だし、話半分だぞ」
小瀬甫庵『上杉毛利、四国と公方様次第ではそうとも限らんぞ』
太田牛一「ぐぬぬ」

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蒲生氏郷は舅の仇・斎藤利三を後年まで尊敬し続けた

風流一辺倒だった頃に利三から弓馬練達と合戦での駆け引きの薫陶を受け、その通り励んで手柄を立て信長の目に止まる

『利三が居たから今の自分がある』
と、晩年も懐かしがっていたらしい

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大友宗麟は城攻めに“艦砲射撃”を用いた事がある

永禄三〜四年(1560〜61年)、毛利元就が領する豊前門司城を宗麟が攻めた際、豊後に来航したポルトガル艦隊に砲撃を依頼
 関門海峡東から門司城目掛けて数十発を撃ち込むも、成果は無かったらしい

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大将首は首実検を終えた後、敵の御家が存続していれば返却されていた

添状の書式や首桶の材質から日取に至るまで古伝の儀礼作法があり、筋を通せば受け取り側も承諾するのが礼儀であった
今川義元や龍造寺隆信の首級もこれに則り返却されている

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生きている敵から獲った首級と死骸から取った首級は頸部の断面で判断できる

生きている敵は切断されまいと抵抗するし、動脈を切断すると血圧で断面が“はぜかえる”が、死骸は抵抗しないし血圧がゼロのため切断面に大きな特徴があったらしい

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石山本願寺の最終兵器、“大坂之左右之大将”こと下間頼廉と雑賀孫一は討ち取られ、首を晒されたことがある

…もちろん、誤報。
織田軍が石山戦争の膠着状態に焦って偽首に騙された、あるいは虚報を流したと思われるが、一時はかなり話題になった模様

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武田信玄は芋虫が苦手

馬場美濃守が克服させようと衆目環視の前で信玄の手に芋虫を乗せた事があるが、醜態は堪えたものの顔色が明らかに違うかったらしい

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太郎…長男
小太郎…太郎さんの長男
孫太郎…小太郎さんの長男
彦太郎…孫太郎さんの長男
平三…平家出身の三男さん
藤次郎…藤原家出身の次男さん
源四郎…源氏出身の四男さん

…だが、父親の名を受け継ぐ事が多いので必ずしも太郎さんが長男とは限らない

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戦国武将にも“キャリア”と“ノンキャリ”がある

『戦場の最前線で白兵戦して敵の首を掻っ切り、帰還して首実検で手柄と認めて貰い出世した者』、「端から大名家大将家の生まれで帝王学を学び、合戦の指揮を執り家臣の手柄を首実検で評価する」者に大別される

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上杉謙信は備前長船長光と景光、織田信長は備前長船光忠の蒐集家

 信長所蔵の“実休光忠”は長船派に合わぬ波紋が特徴で、三好実休が久米田で討死した際に太刀打ちした痕跡があったとされ、信長が本能寺で最後を迎えた折にも所持していたと伝承されている

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徳川家に祟る妖刀としてお馴染みの“村正”だが、村正は伊勢桑名の刀工なのでもともと業物が伊勢湾岸国に広まっており、家康も没後の形見分けで初代千子村正を所蔵していた事が判っている
また、本多忠勝の槍で名高い“蜻蛉切”も村正作である

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