“黒船”はペリーの専売特許ではない

元々は戦国〜安土桃山時代に日本へ来航したポルトガルやスペインの遠洋艦隊が戦艦に腐食防止のため黒いタールを塗っていて黒船と呼ばれていた

ペリー来航後は幕府や世間が震撼したこともあり彼らの艦隊名として定着した

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本願寺顕如が織田信長に宣戦布告したのは27歳の時

本願寺法主の座に着いたのは12歳
石山戦争は十年で決着なので37歳

当時の感覚なら立派な大人だが、なかなかの修羅場人生ではある

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黒田官兵衛の官兵衛は“クアンピョウエ”と読む

フロイスらキリスト教宣教師にはそう聞こえたらしい

彼らは人や地名の読みを聞こえた通りに記載しているため、一次史料でも判らないことが多い読み仮名や発音を後世に遺している

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参勤交代は大名側が幕府に希望して始まった

当初は参勤、参じて勤めるではなく参覲、参じて覲(まみ)えるだった

国元に居るより江戸に居るほうが幕府に変な勘繰りをされずに済み、情報収集がしやすかったため
 細川忠利が参勤交代を建白、徳川家光が受理して成立した

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相模北条家の雑兵は七十歳過ぎでも動員が掛かる

おそらく出撃する足軽=戦闘用員が他家より多く、結果として補助要員も多く必要なため
彼らを捕捉する政治基盤、兵糧を支払える財政地盤があることも大きい

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浄土真宗本願寺派は信仰しても“現世での幸せ”は担保していない

悪い人生だなと思っても教義と信仰を心がけて生きれば死後極楽に行けるぞという宗旨のため
なので加持祈祷や占いを禁じており、本願寺顕如がたびたび門徒衆に禁止令を出している

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三葉葵といえば徳川家康だが、三葉葵には物凄いバリエーションがある

家康・秀忠時代は葵の葉脈が緻密で葉と枠に隙間があるのが特徴

時代が下るにつれ将軍家仕様・御三家仕様と様々な進化を下たが、臣下は使えず徳川一門の独占紋になっていた

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徳川家康は医食同源を理解していた

鯛のてんぷらの逸話で損をしがちだが、漢方医学ほか食事が健康に係わる事を意識していたという

織田家から真冬に届いた桃に手をつけなかった、美食は月に二度三度で良い、麦飯を好んだなど家康と食に関する逸話は数多く残っている

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徳川家康の長子と末子は半世紀近い開きがある

長男信康は十八歳、末娘の市姫は六十六歳で儲けたのでその差は48年

信康の娘・とくは1577年、とくと小笠原秀政の子・忠脩は1595年生まれ
 市姫は年上の大甥がいた事になる

なお48年は戦国時代で推定二位記録になる

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三河武士は犬より忠実かも知れないが飼い主は選ぶ

時の松平家総領が頼り甲斐のある親分だから忠実なのであって、家康の曽祖父・信忠や父広忠の時代は同じ松平一族でも団結していなかった

徳川家康は血筋ではなく実力で三河武士を従えていたことになる

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武家諸法度(元和令)はたった十三箇条しかない

しかも文武両道を磨けとか倹約に努めろとか犯罪者を隠匿するなとかそれ当然ですよね的な項目も多い

この内の一箇条、城の修理は届け出必須、に見事引っ掛かったのが福島正則である

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豊臣家の相模小田原城攻めは包囲だけで終わった

小田原城に圧倒的な豊臣の軍勢を誇示しては見せたが包囲ばかりで、徳川家康麾下の井伊直政が血気に逸って城郭内に攻め込もうとしたのを除けば大きな激突も無かった

但し属領は武蔵忍と伊豆韮山以外全部毟られた

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長槍足軽の三間槍は物凄くよく撓る

木材を割竹で包む複合材製なので、構えただけでビヨンビヨンと揺れるほどよく撓(しな)る

この撓ることが重要で、平場での槍叩きの際には鞭の様に敵を打ち据え、槍衾の折には騎馬隊の突撃を折れずに迎撃することが可能だった

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火縄銃の弾丸火薬装填動作時、目線を敵から離してはいけない

古伝に多く見られる所作
余所見をすると敵に隙を突かれて不覚を取るためと思われる

但し鉄砲足軽には多くの場合、発砲介助のための雑兵が付いているので乱戦時を除き射手が装填することはない

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蛇の目紋といえば加藤清正の紋として名高いが、豊臣秀吉の家臣に“蛇の目紋の加藤さん”は三人いる

加藤嘉明と加藤光泰も同じ蛇の目紋

蛇の目紋は弓の弦の予備を巻いた弦巻から来る尚武紋で、蛇の目に通じ邪気を祓う信仰紋の側面を持ち、加藤清正の専売特許ではない

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細川忠興と藤堂高虎は晩年、殆ど眼が見えなかった

双方とも書状で視力低下を嘆いており、高虎はほぼ失明状態だった

特に忠興は筆まめだったため眼病の履歴や進行度合が具に判る貴重な症例
多くの眼医師に診察を受け、眼軟膏の使用などが確認されている

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徳川家康は最晩年、急激に痩せた

胃癌の疑いで食も細り、嘔気嘔吐を繰り返していたので体重がかなり落ちた

ただし意識判断力は清明であり死の2週間前に詳細な遺言を残せた
上杉謙信の様に脳血管障害で急死なら幕府の混乱も大いにあり得た

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徳川家康は熱中症に罹ったことがある

慶長十七年(1612年)、七十歳の時に熱中症(日射病か)と思しき症状で倒れたが、程なくして回復している

なお高齢者の水分不足傾向は戦国当時で既に判っており、晩年の伊達政宗などは毎日決まった量の白湯を飲んでいた

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徳川家康が鯛の天ぷらを食べたのは亡くなる三ヶ月も前

既に食欲不振や嘔気・嘔吐、顔色不良、腹部のしこりや易疲労感などの諸症状を呈しており、食中毒ではなく末期の胃癌と思われる

なお家康は自己診断で自分が配合した薬を飲み続けていた

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竹中半兵衛は自信家

慎ましく才に驕らない雰囲気があるが、言いたいことはハッキリ言うタイプだったらしく秀吉の作戦や言動に面と向かって反論したり、臨終の際には誰が後釜になるかと悲嘆する秀吉に『自分の代わりになるような人物はいない』と言い放っている

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