//=time() ?>
この戦いで、東晋(南)の数十倍の兵力を持ちながら大敗を喫した前秦(北)は支持を失い崩壊。その後は天下統一どころか南北分裂が固着化し、「南北朝時代」が到来します。
隋による天下統一は589年なので、東晋のまさかの逆転勝利は、中国の再統一をつごう200年以上遅らせることになったのでした。
【姚萇、ようちょう】
331年-394年、字は景茂。羌族の部族長・姚弋仲の子。姚襄の死後、前秦に降る。前秦の将軍として働くが、天王・苻堅の怒気にやってられねえと後秦を建国した。苻堅を殺し、関中を巡り前秦と争う。名将・名君の度量は十分だが、苻堅が絡むと途端にポンコツ化した。#後秦
五胡十六国時代の1番の名君とされている、前秦の苻堅。in 自分とこフィルター
光武帝を意識したとのことで若い頃の姿は若干劉秀と似てしまいました。非常に若くして即位してるんですよね…。王猛ノータッチなのが悔やむとこ。引用故事は全部佐藤さんと小川さんからです←
#五胡十六国の日2021
【苻登、ふとう】
343年-394年、字は文高。前秦の建節将軍・苻敞の子。西の氐族集団を率いて後秦と戦い、前秦皇帝苻丕の死後、周囲に推されて即位する。率いる軍は『熟食』『死休』のパワーワードで精強を誇った。後秦との大一番で敗れ、徐々に劣勢となり、後秦皇帝姚興に敗れ討死した。
【苻登、ふとう】
343年-394年、字は文高。前秦の建節将軍・苻敞の子。西の氐族集団を率いて後秦と戦い、前秦皇帝苻丕の死後、周囲に推されて即位する。率いる軍は『熟食』『死休』のパワーワードで精強を誇った。後秦との大一番で敗れ、徐々に劣勢となり、後秦皇帝姚興に敗れ討死した。
元々は兵馬俑それぞれに彩色が施されていたのだが2000年もの時間の経過と掘り出した後空気に触れ酸化によって塗装が変色しグレイトーンになってしまっている。それでも衿とか鎧などの塗料の断片から作られた時はすべての俑に彩色が施されていた事が分かった。
2000年前秦俑見れてなんだか感動した。