🏯#戦国IXA🗾には
誰もが知る戦国武将から
ちょっとマニアックな人選まで
戦国時代を彩った人物達が
美麗イラストの武将カードとして多数登場中🎨🖌️

今月も山科言継などが追加されているもく🖼️

お気に入りのカードを育成して
仲間との協力や戦略で天下統一をめざそうもく✨
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山科言継

集金に駆けずり回って家業でお医者さんして愛洲薬処方して足利義輝に家領横領されて『返して(´・ω・`)』って何度もお願いして現代にも残る一次史料の日記書き続けて集金に駆けずり回って信長に心配されて死後三百年以上経って破格の贈従一位になれたひと

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問・「何で屋敷でじっとしてないんですか」

答・山科言継『引き籠もりに公卿は出来んからじゃ
人脈こそが乱世を生き抜く術であり公卿の存在価値だからの

なお、公家の日記にたびたび出る“村長”とは村井長門守、織田の京都所司代・村井貞勝のことだ
困ったらまず彼に便宜を図るのが公家の常套だぞ』

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みつぶちたまとほそかわどののしいたけ観察日記
その233 多分あれは毒キノコ
先日書いた言継卿記で書いてあるきのこですが、ニガクリタケの可能性やっぱりあるかなと思ったのですがね。
山科言継が緩和させるために薬を処方しているみたいですが、この薬がわからない。オウバクなのかジオウなのか

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武田信玄『穴穴賢、穴穴賢。』
山科言継「穴は一つしかないから(至言」

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元亀二年(1571年)十一月十七日

吉田兼見「やー言ちゃん、元気してる?
大根四束(百本)送るねー」
山科言継『すまんな
 またお返しか、薬の処方させて貰うわ』

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近衛稙家『関白でもいい、たくましく育ってほしい』
後奈良天皇「でもって何だでもって」
二条晴良「ハイリハイリフレ背理法〜♪」
山科言継「Hi deeなんだよなあ」

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戦国時代にも“石田散薬”的な薬があった

陰流の祖・愛洲移香斎が考案したという“愛洲薬”がそれで、打撲・内出血・火傷から婦人病にまで薬効があった

 上泉信綱を通じて山科言継に伝わり、よく聞く薬であったらしく言継は請われて愛洲薬を度々処方している

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“マラリア”患者は戦国時代にも居た

 史書に散見される“瘧”(おこり、瘧病)がそれと推測されており、三好長慶の弟・十河一存や山科言継の正室・南向などが罹患したとある

 言継は漢方薬に心得があり、妻に五苓散・麦門冬湯などを調合処方し与薬している

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戦国時代、朝廷の御料所や公家達の荘園は武将達に横領され捲ったが、実は足利義輝もしっかり横領している

言継卿記で名高い山科言継も義輝に横領された荘園返還を義輝の母・慶寿院に仲介を依頼している

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江戸幕府将軍家の直轄領…約400万石、佐渡など金山地を含む

豊臣秀吉の直轄領…約222万石、佐渡や出石など金銀山を含む

室町幕府将軍家の直轄領…応仁の乱後は無いに等しい

足利義輝『無理ゲー過ぎる』
山科言継「たからってうちの荘園横領すんなし」

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「どうしてそんなにお金を欲しがるんですか」

山科言継『無いからに決まっておろう

御料所は横領されるわ内裏は白壁も荒れ果て京童が遊びまわるわ、公家は着る物にも困るわで散々だ
儀式の費用は勿論、帝は短冊に宸筆を認め売りに出すほどの赤貧であるぞ
…儂が金策に東奔西走したのも無理は無い』

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永禄十二年(1569年)閏五月十一日

“曼殊院覚恕(後の天台座主)の御屋敷が屋根を葺き替えたとの事で挨拶に出向く
次いで甘露寺経元を訪ね、改元などについて話し合う”

山科言継『三好匠作殿の決めた永禄もはや十二年、そろそろ…え、近くに破れ奉行来てるの?』

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元亀二年(1571年)五月十日

“真如堂蓮光院(足利義輝の菩提所)に招かれ、来る十九日の義輝七周忌について話し合う。儀式の音楽については四辻家(家業が和琴・箏)に申し渡す。”

山科言継『まあ、奇天烈な公方様でしたが…京雀達の人気は今も上々な事てすし、御弔いして罰当たらんですやろ』

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永禄十三年(1570年)五月三日

“織田弾正忠殿(信長)を訪問、林佐渡守の取次で徳川家康・畠山高政・松永久秀殿と逢う。話合いの仔細説明を受け、徳川殿他三名に飯が振る舞われる”

徳川家康「言継卿も御健勝で何より(もぐもぐ」
松永久秀「ささ、一献」
山科言継『お、おう(なんだこの面子)』

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永禄十三年(1570年)四月三十日

“夜十一時頃、織田信長が越前攻めから京都に帰ってきたらしい。
武家奉公衆の松井康之殿が越前で怪我をしたらしく、愛州薬(火傷や打ち身の薬)が欲しいというので一包処方する”

山科言継『弾正忠殿も運が良い、鰐口を逃れなされた
はい、愛州薬。御大事に』

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永禄十一年(1568年)四月十五日

山科言継『午後二時頃、伏見殿(伏見宮貞康親王)が亡くなられた。御歳二十二歳のご早世は、言葉に出来ない…言葉に出来ない』

織田信長「嬉しくて?」
山科言継『悲しくてに決まっておろう、儂ゃ小田和正か』
織田信長「オフコース」
山科言継『もうええわ』

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永禄十三年(1570年)四月十四日

山科言継『蓮光院(烏丸光康?)の要請で織田信長殿に会うも“今日、がっぺむかつく事があった!!”というので帰る。
 路上にて武井夕庵殿(信長の右筆)に会う。禁中見物に付き合う』

武井夕庵「災難でしたなあ言継卿…こんな日もありますよ…ささ、まずは一献」

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『畿内で公家家領や御料所の横領犯といえば、儂と弾正ンとこの弟(松永長頼a.k.a内藤宗勝)、あと今村慶満が悪名高いが…

言わせて貰えば、当の公方様( 足利義輝 )もやってたぞ。

 山科言継が公方に家領を取られて、慶寿院に口添え頼んで返して貰った、だなんて話もある』
https://t.co/l5Nw60ierB

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★5山科言継
蹴鞠や和歌などの公家らしい教養だけじゃなく薬の心得もあって、自分で調合した薬を庶民に配ることもある優しい戦姫ですよ~。しかも火の車だった朝廷の財政を、持ち前の交渉力で立て直した実力派の戦姫です! あとあと、お酒が大好きでとっても強いんですよ~! 

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