明智光秀の謀叛の理由を本人から教えて貰った人がいる・其の二

細川幽斎・忠興父子
二人が信長に哀悼の意を示して髻を切ると慌てて書状を出しているが、そこには『十五郎(嫡男)や忠興の事を思ってやった、畿内が平定出来れば後は若い世代に譲る』と綴られている

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天正三年(1575年)12月2日

吉田兼見『村長(村井貞勝)が有馬へ湯治にいくとか聞いたから見舞いに行った。

道でばったり長兵(長岡兵部大輔・細川幽斎)に会って懇談。

長兵は勝竜寺城に帰る。』

…村長さんとチョーヘイさんでは、ちょっと聞いただけだと全然偉く聞こえない不思議

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稲葉一鉄『ふむ、今日は儂の命日であるな

頑固者で通っておるようだが…
支配者が度々変わった美濃の乱世で盛衰の読みを過たず完走した寝技師振り、茶道や中国の古典・医学にも通じ、旧主・土岐頼芸の死に水も取った融通無碍振りは、かの細川幽斎殿にも遅れは取らんと思っておるぞ』

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『とんと突く ころりと転ぶ 幽斎が
 いかでこの間に 歌を詠むべき』

細川幽斎を階段から突き落とした公家に『歌の名手らしいが、こんな状況でも詠めるのか』と聞かれて、幽斎が返した一句らしいけど…

その後、この公家は無事だったんだろうか(

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下関資料館の企画展示の〆あたりに突如登場する、山口県指定文化財「細川幽斎書状」………

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本能寺後の筒井順慶の優柔不断振りは名高いが、細川幽斎も似たような事をしている

明智光秀の誘いは蹴ったが弔い合戦を起こすでもなく、山崎の合戦で秀吉に付いた訳でもない

合戦終結後に本能寺の焼跡で信長追悼歌会を主催するまで雲隠れしていた

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発行(708 和銅元年5月11日 誕生(1534 天文3年4月22日 大名)、#真田信繁(#真田幸村) 戦死(1615 慶長20年5月7日 武将)、#アヘン処分(1839 道光19年4月22日 就役(1920)、つづく

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細川幽斎『あ、それ人脈ないと無理』
細川忠興「極めたの!?!」

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福島正則『内府殿宛の手紙を持った儂の家臣を追い返した』
細川幽斎「儂の顔を知らず追い返そうとした」

https://t.co/ubfRT3JNcv

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細川幽斎『誰に似たんだろうな』
細川忠興「親の顔が見たいなら洗面所行って来い」

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戦国武将に学ぶ転職のタイミング

細川幽斎『収入源が枯渇し始めたら赤信号。教養と人脈は時流を読む助けになります』
藤堂高虎「時代のNo.1ではなくNo.2に気に入られると見動きしやすく、得られる情報が増えます」

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羽柴秀吉with福島正則『いやなに、ちょっと正妻以外に現を抜かしただけなんです』

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羽柴秀長が“秀長”だったのは晩年六年間、細川幽斎が“細川幽斎”だったのは晩年十年間だけ

秀長は人生の大半が“長秀”で、幽斎は織田信長に仕えて関ヶ原合戦が終わるくらいまで“長岡兵部大輔藤孝”だった

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細川幽斎は料理の鉄人

毛利輝元の屋敷で鯛料理を所望され厨房に赴くも
“気に入った包丁がない”
と言いマイ包丁を取り出し、まな板に奉書紙を敷いて見事な包丁捌きで鯛を下ろす

調理後に奉書紙を確認すると、傷一つ無かったらしい

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④畿内・旧幕臣派

明智光秀を漠然としたリーダーとする、信長上洛後に帰属した者達

明智光秀と姻戚の荒木村重や細川幽斎・筒井順慶、足利義昭を一時は主君と仰いだ者同士として三好義継や松永久秀も該当

両細川の乱や永禄の変で権力者が呆気なく死ぬのを見ているので、機を見るに敏な者が多かった

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織田信長『長兵』
羽柴秀吉「細川幽斎殿」

なぜそう思われますか?

織田信長『あいつ、突撃してきた暴れ牛を涼しい顔して角掴んで投げ飛ばす様な奴だぞ』
羽柴秀吉「無礼を働いた門番の手首握り潰したって聞いて、さもありなんって思った」

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兵部大輔

細川幽斎『お前口下手だし処世術ないし教養ないし、かといって怪力でも無いし剣術も出来ないし名門でもないぞ』

「不義理な点では遜色ないぞ」
『上司が大内義隆で部下に井伊直政だぞ』
「ごめん」

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10に明日出展予定です。新しいものはありません。すみません…。論文をマンガ化した『Hosokawa』と細川家の人物を紹介した『ほそかわけ!』を持って行きます。この細川家は熊本藩の藩主になった細川家だよ。細川幽斎と忠興がメインです。
初参加です。見に来てね!

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