1340年の「大徳王寺城の戦い」は、宗良親王を立てて籠城した時行・諏訪連合軍との腐れ縁の総決算たる戦い
小競り合いでは数十回もの敗北をしつつ、4カ月粘ったことで落城させて勝利したという
ただこの合戦「守矢文書」にしか記述がなく実際にあったか疑問視されてもいます

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【Tips】鳥の音も/なへて聞えぬ/山にしも/なれはなきける/時鳥かな
撰者宗良親王の准勅撰和歌集『親葉和歌集』撰入の一首
作中では宗良親王が詠っているが、実際は住吉大社の歌合で詠まれたよみ人知らずのもの
約1420首の中から時行に合う和歌を見つける松井先生のワザマエよ

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大伯(大来)内親王の忌日です。
大伯といえば大津、大津といえば大伯。というぐらいに姉弟がセットなイメージですね。(そして二上山も)
大伯のこのイメージはほぼ万葉集での形成になるわけですが。

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兄は『太平記』で人を12mくらい放り投げたり護良親王の影武者になってはらわた撒き散らす凄絶な切腹を遂げた義光(のモデルの義日)
兄の系譜の義弘は「村上水軍」の祖とも言われますがそちらも高確率でパチモン
兄の死後に家を継いだ信貞が信濃村上氏を盛り立てた功労者です

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この後酒人は山部親王の妃になりますが、この潔斎期間中になんかあったんじゃね??みたいなのをどこかで読んだ記憶があるけどうろおぼえ。

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十月に即位した光仁天皇の血縁が親王・内親王となり、井上内親王が立后されました。
諱が山部王で後の桓武天皇、酒人内親王・能登女王・弥努摩女王が光仁の皇子&皇女ですね。後は関係が不明な人もいますがおおむね志貴皇子系の方々かと。
この段階では酒人内親王だけ「内親王」表記なんですね。

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今週号の逃げ若の親王様達!!お顔がわかる親王様がいて嬉しかったです。
ngwk的には出てこない可能性が高いけど、かねよししんのーの意志の強そうな顔がいいですな!

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天下を朝廷に戻した後醍醐天皇が始めた建武の新政ですが、倒幕時に護良親王が令旨をバラ撒きすぎた反動が早速来る
後醍醐としては天皇の出す命令の綸旨を絶対としたいのに、護良が勝手に恩賞の約束をした令旨が邪魔になったのです
これが護良との軋轢の一つと言われている

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それ以上に恐ろしいのはド級のリトライ、ドリトライの精神性でしょう
それこそ承久の乱を起こした後鳥羽院のように反乱を起こす天(上)皇はいましたが、配流先から戻ってくる程の人物は空前絶後です
正成の奮闘、護良親王の令旨ばら撒き、赤松円心の挙兵とタイミングも絶妙

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兄の護良親王から引き継ぐ形で天台座主となり、後醍醐帝の倒幕計画に必要な僧兵を集める
それはそれとして挙兵前に『古今和歌集』の写書をしており、本人はかなりマイペースな趣味人です
むしろ父に似ず控えめな性格で政敵の花園上皇にも「親がアレで可哀想」と同情されている

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逃げ若武将名鑑【宗良親王】
後醍醐天皇の第四皇子
和歌が大好きでいついかなる時でも和歌を詠んでいた物腰柔らかな皇子
流浪の末に信濃は大鹿村の大河原城を拠点として挙兵するが、それはそれとして和歌は詠む
准勅撰和歌集『新葉和歌集』の撰者で和歌集『李花集』の著者

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【追記】
宗良親王を井伊谷に招き入れた将を「行直」としましたが「道政・高顕親子」とも言われているそうです
ただこの親子、江戸時代に井伊氏が呈譜した家系図に名前がなく架空の人物とも言われています
しかし井伊谷宮には祀られている
畜生!名前伏せた理由これかよ!!
  https://t.co/2swiFdtBUx

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宗良親王との信頼関係も篤く、今川・高師泰・仁木義長といった猛将の攻撃を受けて1337~40年までよく耐えたんですが、それでも香坂高宗の読み通り井伊谷は陥落
宗良親王は信濃に落ち延びますが、井伊家はそのまま今川家の下に降伏
井伊家の苦難はおんな城主直虎の代まで続く
 

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逃げ若武将名鑑【井伊行直】
状況的に考えて当時の井伊谷領主の行直と思われる
南朝の荘園を多数抱え、南朝支持の伊勢神宮と関わりが深いことに目を付けた後醍醐天皇が早い内から宗良親王を送りこんで抱き込んだ
遭難後の宗良親王も匿うが足利軍の猛攻には耐えられなかった
 

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各地で敗北を繰り返しながらも居城の大河原城は難攻不落を誇り関東管領の上杉氏をも退けた
宗良親王がこの地が「信濃宮」と呼ばれる程に逗留したのも頷ける
ところで居城のあった大鹿村にはアニメのEDにも描かれた「伝北条時行墓」がありますが、はてさて……
 

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大河原城主となる前は、中先代後の北条残党として戦った香坂心覚の軍にいた可能性が指摘されるも、心覚は望月氏傍流で祢津氏傍流の高宗とは派閥が違うため定かではない
少なくとも宗良親王を迎えた1343年以降は彼の下に従軍して武蔵野合戦等を転戦している
 

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逃げ若武将名鑑【香坂高宗】
祢津氏を祖とする滋野氏の一族の出身
南朝の忠臣で信濃は大鹿村に築き上げた大河原城に宗良親王を迎えて北朝軍から守り抜く
大河原城は宗良親王にとっての第二の故郷となりこの地で崩御したとも言う。守護の役割を果たした高宗もこの地で亡くなる
 

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おはようございます。
本日は弥彦開催のG1寛仁親王牌 決勝です。
小見川千明さんのリンカイ!声優発表ばりに堅い近畿の2段駆けが予想される中、別線の立ち回りは如何に。注目です。
というわけで今日も競輪協会ご推薦の競輪プロパガンダアニメ、リンカイ!に感謝し一日を過ごしましょう。

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特定記事がないけど早良親王の忌日は諸説ある中で十月十七日が有力なので過去絵上げておきます。
いくつかの史料などからの推察になりますが、
『西宮記』『江家次第』→十月七日
醍醐寺本『諸寺縁起集』所収「両処記文」→十月十七日
『新撰年中行事』『大鏡』『大安寺年中行事次第法式』
で多分後者

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