//=time() ?>
「違う!」 しかし、いや、ちゃうねん。勝ち誇ったカインの「禁句」でブチ切れたハルエルフの叫びを挟んでのこのピノの様子、並べてみるとわかるんですが、注視すべきにみえる「ピノ」でなく背景の「レイヴ」の方がヤバいことになっている。
センシティブな内容を含むツイートです。
表示するにはログインして設定を変更してください。
ヴァルヴレイヴは「世界を曝くシステム」なんだから、そりゃあ「内心を外に曝すシステム」と完全にイコールだ。それを体現するロボットなんだから、閉じ込められた暗い地下空間から飛び出して、光り輝く姿を周囲に目視させてみせるのはとうぜんだろう。
いやだってふたりはいつも「こう」だもの。可哀想と言われたそのままに「慕情を持たない公人」として生きると決めてる、己の血の宿命に従うアセイラムは、その枷のなかでの限界ぎりぎり精一杯の表現で、とあるひとりのことについて言葉にしてるのです。
で、最終回は3人みなが「鳥を見た日」を反芻するのだけど、19話に映像を重ねるとますます「”言ってること・やってること”と”内心”は違う」様子が浮かび上がる。「脚本ごとき」では表現できない心情が。
彼らはサブタイそのものかつ冒頭1話の対となる「流れ星」と化す。この定番的シチュエーションはオマージュが繰り返されるが、これぞ原典ブラッドベリの「万華鏡」。オーバーラップする双方のシーン、ここでスレインの同志皆が一斉に散華してるんだ。
「いろいろなものって?」 「未来です」 「未来…」 「良い事、悪い事すべて…見えるものはほんの少し先のことだけ」 「何でもわかるつもりでいました。多くの事はそのとおりだった」 「でも、本当に大切なものは何も見えていませんでした」
じかに影を画面に映すスレインサイドでももちろん3羽です。伊奈帆も見上げ微笑んだあと最後は視線を外す。スレインだけは鳥を見つめたままで画が終わるんだけど、コンテが巧妙でそこから俯瞰視点の鳥影(=アセイラム視点)のラストカットに続くので
「たかが脚本ごとき」。同じような場面同じような芝居を幾度も繰り返すから、ト書きや台詞だけ追ってしまうと「同じようなことをしてるだけ」にしか見えない。画と音で表現する時間芸術にあって文字情報はその中のほんの一部を構成する部品に過ぎない。
「伊奈帆最初の出撃」と「伊奈帆最後の出撃」はさすがに一対のシーン、そっくり忠実に(てかトレスを用いて)「同じ演技」で手続きが進行される。…されるが、あまりにそっくりなだけに両方み比べると「最後のところだけが違う」のがみてとれる。