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徳川家康『儂や秀忠が鵜の目鷹の目で諸大名を取り潰していたのが嘘の様だ
幕府の検使を前に、明らかに死んでいる大名の耳元で家老が聞耳を立てる振りをして
“○○様は✕✕様を養嗣子に迎えたいと云々”
等と、真顔でやる事もあったそうだ
故に藩主は公称年齢と実年齢が違う事もあったぞ』
#意外と知られていない時代劇小ネタ
江戸幕府は1700年代終盤頃から大名家の改易を忌避していた
諸大名家が何処も財政難で新規採用枠など皆無で、改易による浪人が治安を悪化させるのが自明の理だった為
なので大名家当主が末期養子が出来る十七歳以下で死んで身代わりを出しても黙認していた
@dousetumiki 馬場信春『大河ドラマ人気で市河文書が出て来なければ伝説だった御主が言うと深いものがあるな
なお、儂も地位の割に書状が殆ど無いので御主同様の疑いを持たれている
信長公記?馬場美濃守違いかも知れんからな…』
#戦国武将に学ぶをつけると胡散臭さが増す
戦国武将に学ぶ転職のタイミング
細川幽斎『収入源が枯渇し始めたら赤信号。教養と人脈は時流を読む助けになります』
藤堂高虎「時代のNo.1ではなくNo.2に気に入られると見動きしやすく、得られる情報が増えます」
@nobutoyo_tenkyu 山県昌景『副反応は初回より2回目が厳しいですぞ』
武田勝頼「どのくらい厳しい?」
山県昌景『鳶ノ巣山が落ちた後の設楽原』
武田勝頼「…そのこころは」
山県昌景『厳しいって判ってるけど前に進むしかない』
武田勝頼「座布団一枚」
#意外と知られていない戦国時代小ネタ
関ヶ原の合戦後、東軍は関ヶ原の“掃除”をしている
規模の割に早く集結したこともあるが、国内で起きた最後の合戦から九年も経っていることもあり武将達の合戦流儀や風潮が変わった事が伺える
武田信玄は黒雲、上杉謙信は放生月毛…といえば各々の乗馬だけど、放生月毛はその後どうしたわけか、のどかちゃん…長坂釣閑斎が持っていたらしい
馬の寿命を考えて武田滅亡の頃には死んでいただろうけど、どんな気分で乗ってたんだろう…。
#甲陽軍鑑