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@nobutoyo_tenkyu 穴山梅雪『H鹿野という一文字伏せ字にしただけで卑猥な響きに草』
春日虎綱「伏せ字にしなくても卑猥な貴殿が言うなし」
穴山梅雪『お前だって卑猥じゃねえか』
春日虎綱「それは冤罪だっつってるだろ!」
#このあと無事に香車に突っ込まれた模様
#意外と知られていない戦国時代小ネタ
徳川家康の三葉葵と水戸黄門の三葉葵は微妙に違う
家康の時代は葉脈が33筋で巧緻、芯が枠から別れ小首を傾げている
水戸黄門の印籠にある三葉葵は葉脈13筋で芯が枠と垂直に一体化している
この紋様は光圀没後、江戸後期のデザインである
@dousetumiki 細川忠興『詩歌…古今伝授のワンポイントリリーフが出来る
茶道…超一流処と同席できる腕前
兵法…新当流の達人、“一之太刀”伝授済
弓術…常に弓懸持ち歩き他者を指導
腕力…暴れ牛車を真正面から止められる
恋愛…正室一筋の一途
…京アニあたりに頼んだら良い話になりそうだな、我が親爺ながら』
#意外と知られていない戦国時代小ネタ
細川幽斎は料理の鉄人
毛利輝元の屋敷で鯛料理を所望され厨房に赴くも
“気に入った包丁がない”
と言いマイ包丁を取り出し、まな板に奉書紙を敷いて見事な包丁捌きで鯛を下ろす
調理後に奉書紙を確認すると、傷一つ無かったらしい
#意外と知られていない戦国時代小ネタ
蜂須賀正勝も羽柴秀吉の“与力”だが、給料は竹中半兵衛より断然上
与力は必要経費と俸禄を派遣先から貰うが、正勝は天正元年(1573年)には秀吉麾下最高の三千二百石を得ており、半兵衛の千五十石とは三倍強違う
正勝は与力として播磨龍野五万三千石まで出世した
#意外と知られていない戦国時代小ネタ
竹中半兵衛は羽柴秀吉の“家臣”ではない
半兵衛は姉川の合戦後の元亀元年(1570年)七月、織田信長から秀吉に“与力”として付けられた言わば
“本社からの派遣社員”
であって肩書は秀吉と同じ信長直臣
その立場は、半兵衛が逝去するまで変わらなかった
#信長公記
@nobutoyo_tenkyu 山県昌景『…思い当たる節としては…広瀬景房殿や三科形幸殿、石黒将監殿ら我が山県隊に縁ある者達が“井伊の赤備え”を構成した事だな
武田にいた頃から赤備えの武威を誇ったのだと、思われたのやもしれん』
④畿内・旧幕臣派
明智光秀を漠然としたリーダーとする、信長上洛後に帰属した者達
明智光秀と姻戚の荒木村重や細川幽斎・筒井順慶、足利義昭を一時は主君と仰いだ者同士として三好義継や松永久秀も該当
両細川の乱や永禄の変で権力者が呆気なく死ぬのを見ているので、機を見るに敏な者が多かった
①佐久間・柴田派
織田家家督争いでは信長と信勝に別れてはいるが、信長政権初期は彼らの支持を得てこそ家中を運営できていた
信長も佐久間信盛には最高待遇を与えつつ柴田勝家には利家ら府中三人衆を与力(見張り)につけて警戒を怠らず、織田政権盤石期には信盛を追放しその基盤を吸収している
@nobutoyo_tenkyu 浅間山「バァン!(噴火)」
小山田信茂「 おいゴラァ! (武田家当主の船から)降りろ!(総領の)免許持ってんのかコラ!」
穴山梅雪「(武田家次期総領の席)早く持って来いよ。おうあくしろよ」
武田勝頼「すいません許して下さい、何でもしますから」
#武田にとって真夏の夜の悪夢 #一転攻勢はないです