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遠景でゴジラを捉えたの一瞬のショットに、心がスクリーンに溶け込んだ様な陶酔に酔う。
此等のショット、ゴジラを除くフレーム内映像情報は「本物」に観えるのに「空想」のゴジラが混ざる事で違和感が発生。
が、その違和感こそ怪獣の放つ魅了であり、ショットは“本物以上の瞬間”に変化するからだ。
「『GODZILLA ゴジラ』が熱線を吐いた瞬間、あの映画のリアリティはゴジラにより焼かれ、怪獣映画になった」というのが俺の解釈なので、『ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ』にリアリティがないのは、「怪獣映画だから」だと思っている。
リアリティの枷を解かれたから怪獣が暴れられるのですな。
『ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ』
初見時は死ぬかと思った。其はね、「死んでもいい」って意味です。
俺の映画人生で求めていた全てが成就したんで。
ゴジラが最強のまま、人はゴジラに従い、ゴジラがスクリーンを占領したまま終わる、というね。
だから俺の映画人生はもう終わったんですよ。
レジェンダリー・ゴジラの殺陣、喧嘩殺法みたいだな。
噛み付き、喉輪、尻尾、スタンプ、叩き付け、タックルと連続技が光るが、動物技とプロレスを連続技で繋げ、結果、リアルな喧嘩の殺陣になったか。
中島春雄の着ぐるみの動きを模したフルCGなので、あの喧嘩殺法には彼の動きも含まれているやも。
俺にはずっと、叶って欲しいゴジラ映画があり─
ゴジラ対敵怪獣
ゴジラは自分の為に戦う
単独で敵怪獣を熱線以上の大技で倒す
人類がゴジラに付き従う
ゴジラは海に帰らない
─を求めてた。
『ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ』で其が全て叶ったので、俺の映画人生は大往生を向かえたよ…。
『ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ』
俺は本作を、「形容詞が無力化する映像“のみ”しかない」と評するが、要するに─「うおー!」「スゲェ~!」─という我を失う状態。
「ゴジラが好き、怪獣映画が好き、アメリカ映画が好き。でも其が全部揃う日が来るか?」
まさか、来るとは思わなかった…。
あの巨体が動き出すと、其れまでのノッソリとした動きや、太い見た目とは打って変わり俊敏となる事でギャップが発生するのも良いぞ!
その俊敏な動きから、奴の肉体が脂肪ではなく、筋肉隆々である事が、此もまた時間差を置いて分かるのが良い。
また、あの巨体は敵怪獣との対比も美しく映える。
熱線のチャージ音を無意識の内に「来るぞ!」と我々(主語が大きいけど構わないでしょ?)は翻訳したが、此は《熱線が来る!》と《怪獣映画が来る!》の二つを掛けて「来るぞ!」と、無意識下で訳していたのかもしれない。
軽過ぎず、重過ぎず、しかし全体的にあの巨体から発する重さに批准する形で、レジェンダリー・ゴジラという新しいゴジラの殺陣を創造している。
先述したが、短いのが誠惜しい「もっと見せてくれ!」と懇願を乞いたくなる様な殺陣なのだ。
尚、この殺陣が無ければその後の熱線の色は褪せていただろう。