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遠景でゴジラを捉えたの一瞬のショットに、心がスクリーンに溶け込んだ様な陶酔に酔う。
此等のショット、ゴジラを除くフレーム内映像情報は「本物」に観えるのに「空想」のゴジラが混ざる事で違和感が発生。
が、その違和感こそ怪獣の放つ魅了であり、ショットは“本物以上の瞬間”に変化するからだ。
「『GODZILLA ゴジラ』が熱線を吐いた瞬間、あの映画のリアリティはゴジラにより焼かれ、怪獣映画になった」というのが俺の解釈なので、『ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ』にリアリティがないのは、「怪獣映画だから」だと思っている。
リアリティの枷を解かれたから怪獣が暴れられるのですな。
『ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ』
初見時は死ぬかと思った。其はね、「死んでもいい」って意味です。
俺の映画人生で求めていた全てが成就したんで。
ゴジラが最強のまま、人はゴジラに従い、ゴジラがスクリーンを占領したまま終わる、というね。
だから俺の映画人生はもう終わったんですよ。
レジェンダリー・ゴジラの殺陣、喧嘩殺法みたいだな。
噛み付き、喉輪、尻尾、スタンプ、叩き付け、タックルと連続技が光るが、動物技とプロレスを連続技で繋げ、結果、リアルな喧嘩の殺陣になったか。
中島春雄の着ぐるみの動きを模したフルCGなので、あの喧嘩殺法には彼の動きも含まれているやも。
いや、ドハティ監督はラドン好きだと思う。
此↓とか比べれば分かるけど、作品内での扱いでは答えず、『空の大怪獣ラドン』という映画の見せ場を、『ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ』にトレースする形でラドンへの愛情を見せ付けたのよ。
細かい所では、バスを吹っ飛ばすシーンまで再現してる。
『ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ』にも擬似ワンカットがあり─ゴジラ熱線を吐く→ギドラ回避→カウンターの引力光線→放射熱線が誤爆し南極基地を破壊→人間目線で基地が爆破─の流れを編集で繋げて擬似ワンカットに観せている。
この、大が小を動かす「映像のドミノ倒し」は凄い迫力だったね。
『GODZILLA ゴジラ』(2014)
#始まり方が最高に好きな映画
ゴジラ本編登場まで一時間を要する為、「如何にゴジラを観せず観客にゴジラを印象付けるか?」に答えたのが、カイル・クーパーによる冒頭。
モキュメンタリー手法とデスポラのスコアにより、姿の映らないゴジラへと観客は想像力を馳せる。
(其処に行くまでに核と芹沢の犠牲等“物語”はあるが)空に熱線を撃つゴジラのシーン、宿敵的兵器から生存した勝鬨なのだろう。
其は監督の意思でもある筈。
“怪獣対決映画”『ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ』は、嘗て東宝で死んだ怪獣達をレジェンダリーの場で復活させている映画でもあると思う。
俺にはずっと、叶って欲しいゴジラ映画があり─
ゴジラ対敵怪獣
ゴジラは自分の為に戦う
単独で敵怪獣を熱線以上の大技で倒す
人類がゴジラに付き従う
ゴジラは海に帰らない
─を求めてた。
『ゴジラ:キング・オブ・モンスターズ』で其が全て叶ったので、俺の映画人生は大往生を向かえたよ…。