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@syamada0504 彼らに見出されるヒューマニズムは、きだが「気違い部落」をモチーフとしたように、人間性の定義よりは狂気の肯定へ向かうものでした。きだの再評価とともに、そうした「狂気のヒューマニズム」の視角をエルネスト・グラッシやネルソン・グッドマンなどと重ねることにより、新しい人間論を模索します。
ヒステリーとパペットの問題を扱ったこの本もよさそうな感じ。
Constructing the Viennese Modern Body: Art, Hysteria, and the Puppet (New York & London: Routledge, 2017)
#ランシブルの万夜万冊
Death in June(六月の死)の『Nada!』(85年)もまた弊誌のような「暗黒批評誌」にふさわしい音盤です。このアポカリプティック・フォークの記念碑的作品を聴いて、あなたの「ゴシック・ハート」(高原英理)を滋養しよう! https://t.co/vdXXviVhq1
「六月の死」の『しかし、象徴が砕け散ったとき何が終わるのか?』(92年)のゴシック・フォークで「暗黒聴覚」を高めながら読む『機関精神史』は格別です!
https://t.co/DZfnGNYjt7
そして彼のすぐれた業績としてよく挙げられる時事評論「共産主義的人間」と、それに対する左派の小場瀬卓三・右派の福田恆存・つかみどころのない花田清輝……という同時代の《演劇的精神》たちの三者三様の応答について、彼らをあたかも舞台上の「俳優」であるかのように扱い、考えます。
この舞台の俳優は誰もがひとクセある厄介な輩だが、にもかかわらず(いやそのゆえに)めっぽう弱く、すぐに「挫折」してしまう。ライカのカメラを握る石原莞爾、ピストルを遮二無二撃ちまくるアルフレッド・ジャリや赤塚不二夫描く『天才バカボン』の本官さん、彼らは、愛すべき歴史の道化であった――
一見のまじめな歴史語りのうちにたくさんの爆弾を仕掛け、晩年の山口昌男はニヤリとする。荒唐無稽すれすれの論理、たえず脱線を繰り返す軽率な記述……。これらの身振りを通じて、山口はあたりまえの「日本近代史」のかたわらに、もうひとつの歴史の舞台=世界劇場を据える隠微ないたずらを試みた。