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私も鎌倉殿の絵描く際にそもそもこの服なに?直垂?レベルなんすけど大河は大河で実物観ながら描くのがベストだと思うけど、この黒義時は服が黒ければ画面も黒い!細部わからん!って結果塗りつぶしたのが記憶に新しいところ。
天平勝宝度の遣唐使は第一・第二・第三船は同時期に阿児奈波島(沖縄)に到着して同時期に再度出航したものの大使藤原清河の第一船は座礁、なんとか離礁したものの漂流してそのままベトナム方面へ、命からがら清河と阿倍仲麻呂は長安へ逆戻りという流れです。
天平勝宝度の遣唐使、第二船で副使の大伴古麻呂が帰国、鑑真和上も唐を密出国のかたちで来日。強行突破した古麻呂のことは讃えて欲しいが和上を船から降ろした大使藤原清河のことは責めないでください。清河だけの独断じゃないだろうから…どっちかっていうとこの場合古麻呂がちょっとヤバい人だから…
三が日辺りに描き始めて進んでなかった遣唐留学生トリオで卯年な年賀絵的なものだったもの。
向こうの冠は燕尾(纓)的なやつが色んな方向に育ってるのでこんなんがあっても良いと思う。
あまり関係ない武智麻呂の絵をつけましたが、この養老年間に出発して帰国した遣唐使のこの記事の後、日本での朝服が正式にこのスタイルになり(右衽)、把笏が始まります。逆にそれまでのスタイルは…?という点が気になる。