//=time() ?>
もう1つは、砲兵隊の運用方法である
シャルルはノイス近郊における帝国軍との野戦(1475)において、本軍とは別個の機動部隊として砲兵隊を用いている
一方、マクシミリアンは中央の歩兵隊に組み込んで配置している
これは恐らく、中央に砲列を敷いたフランス軍への迎撃のためだろう→
ビザンツが滅亡した後、西欧世界は冷淡で無関心な反応を示したと言われますが実際は寧ろその逆で、1454年には「雉の祝宴」に代表されるような対トルコ十字軍熱が高まり、ミラノやヴェネツィアでは、十字軍の先頭に立つ旗手としてブルゴーニュ公がその期待を寄せられました
rkgk
神聖ローマ帝国内における外来有力諸侯4人(1470年代)
左からデンマーク王クリスチャン1世、ボヘミア王イジー・ポジェブラド、ブルゴーニュ公シャルル、ハンガリー王マーチャーシュ1世
中世の医療はこの時代にまつわる最大の謎と言ってもいいかもしれない
瀉血や武器軟膏、宝石の粉を振りかけるなど珍妙な治療方法があるにも関わらず、ブラッドモアによる治療例やタウトンの集団墓地からは、高度な医療技術があった事を伺わせる
ブラッドモアの技術もすごいが、右目にランスが刺さったフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、首(恐らく喉)を斬られたシャルル公の治療に当たった外科医達も相当な腕前だったのではないかと思う
全部もうちょいで死ぬケガ