//=time() ?>
ブルゴーニュ公シャルルは1475年5月23日に行われた神聖ローマ帝国軍とブルゴーニュ軍との間での野戦に関する報告書簡を書いているが、その中で「イングランド人らは彼らの慣習に従い、地面に十字を描き、それに口づけしてから前進した」と記している
当時のイングランドにそんな慣習あったのかな?
#子供の頃と今とで見方が変わった偉人
シャルル突進公
昔:情熱的かつ激情的な政治意識で領土を拡大し、現実的思案に富まず凍てつく雪原に消えた君主
今:父の遺した内憂外患に対処しつつ、外交力と武力を駆使して勢力を拡大するも離反や反乱に遭い、組み上げた歯車が一つずつ狂っていった悲劇の君主
ギネガテの戦い(1479)の時のブルゴーニュ軍ですねこれは…
さきの戦で戦死した君主の遺臣や兵達が再結集、亡き君主を裏切り敵国に寝返った家臣の率いる侵略軍に対し、亡き君主が破れた相手の戦術を使って撃破したという劇的過ぎる展開 https://t.co/Xo9qva5FjY
Löffelholz写本はニュルンベルクの貴族マルティン・レッフェルホルツ・フォン・コルベルクの家庭常備書として作成され、弩の他にもキャスター付きの回転椅子やコンパス、ワークベンチなどが描かれ、当時の加工技術の高さが伺えます
こちらが写本に描かれた弩の図
真ん中のネジを回して弦の固定装置を回転させ、底部のつまみを引いてロックを解除しする事で、弩の下半分がレバーの様に動きます
固定装置に弦を引っ掛け、レバーを所定の位置に戻し、矢を置くと装填完了…となります
モンジザールの戦い(1177)
サラディン軍を追跡していた16歳のエルサレム王ボードゥアン麾下の軍勢は、ジザルディ山で敵を補足
聖遺物を掲げてエルサレム軍の指揮を鼓舞すると、山を駆け下りて大奮闘
少年ボードゥアンもらい病に犯されながら自ら奮戦し、サラディンは戦死する寸前まで追い詰められた
ナバス・デ・トロサの戦い(1212)はレコンキスタの中でも伝説的な扱いを受けている戦いで、十字軍側は敵ムワッヒド軍の2分の1しか無かったが、ナバラ王が少数の騎兵で英雄的突撃を行い、敵将ムハンマド・ナースィルの居る本営まで一直線
大混乱に陥ったムワッヒド朝軍は大潰走する
ヨーロッパクソ雑魚説は飽き飽きしたので、騎兵十数騎で1、2万のアステカ軍の中を暴れ回って的確に敵の隊長格を討ち取っていき勝利したオトゥンバの戦いも知られてほしい