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エドワード王にとって1475年のピキ二ー条約は苦しい王室財政の回復とフランスとの婚姻同盟による国交強化というメリットがあったかもしれないが、結局1482年にはフランス側が条約に反して年金の停止と婚姻の破棄を行ったため、エドワードは失意の中死ぬことになった
ブルゴーニュ公シャルルは1475年に同盟者のイングランド王エドワードが離反した際、直接王の宮廷まで出向いてバチギレしているが、シャルルはエドワードが王位を追われて亡命した時も資金援助をしたり、王位奪還のための挙兵の際は軍事支援もしてめちゃくちゃ投資してたのでキレたのも無理はない
正確には第13代ウォリック伯リチャード・ビーチャムの墓碑から復元したもの(1439年死去なので鎧の様式は若干ズレる)
イングランドだからここは王道のサレットでもいいけどあえてのアーメットという選択がもうたまらん
胴鎧の曲線の溝とか腰周りの短めタセットとかもうほんとにけしからんぞ
こちらも同時代のイタリアの写本より(BNF Nouvelle acquisition française 5243 Guiron le Courtois f.19v)
サイズ感としては上記のものとほぼ同じぐらい?
ブルゴーニュ公シャルルは1475年5月23日に行われた神聖ローマ帝国軍とブルゴーニュ軍との間での野戦に関する報告書簡を書いているが、その中で「イングランド人らは彼らの慣習に従い、地面に十字を描き、それに口づけしてから前進した」と記している
当時のイングランドにそんな慣習あったのかな?
#子供の頃と今とで見方が変わった偉人
シャルル突進公
昔:情熱的かつ激情的な政治意識で領土を拡大し、現実的思案に富まず凍てつく雪原に消えた君主
今:父の遺した内憂外患に対処しつつ、外交力と武力を駆使して勢力を拡大するも離反や反乱に遭い、組み上げた歯車が一つずつ狂っていった悲劇の君主
ギネガテの戦い(1479)の時のブルゴーニュ軍ですねこれは…
さきの戦で戦死した君主の遺臣や兵達が再結集、亡き君主を裏切り敵国に寝返った家臣の率いる侵略軍に対し、亡き君主が破れた相手の戦術を使って撃破したという劇的過ぎる展開 https://t.co/Xo9qva5FjY