//=time() ?>
無償の愛って言葉は一聴すると甘美
が、存在しない
存在するとしたらその概念自体が矛盾そのものになり存在しえない
全ての行動は目的的だから
全ての愛には必ず理由がある
人は快を求めて動く
愛から無償の概念を取り払う事で対人関係をより円滑にできる
行動の動機を冷静に見れる様になる
やたらと他人に対して高圧的だったりプライドが高いですと言わんばかりにマウントとってくる人っているよね
あんな人たちは基本的にメンタルが弱いのだ
弱いからこそ防衛しようと躍起になって自分を大きく見せようとする
だから、基本的には偉そうにする奴はただの雑魚だとタカを括っておけばいい
誰もが当たり前と思うことを当たり前にやる、これがどれだけ凄いことかは中々分からない
例えば、毎日の挨拶でもちゃんと気持ちを込めて一回一回を当たり前のようにやるなんて事は凄い事だ
毎日一回のおはようも10年続ければ、3600と数十回余
この一回一回に思いを込めるなんて簡単なことではない
自分の弱さと立ち向かわないといけない、てのはまあ正しい
しかしこれを弱さと戦うことと捉えてはまずい
自分と戦ってどうするんじゃと言う話である
立ち向かうとは直視する事
戦うのではなくまず認めて受け入、そして自分にできることから向上を目指すでいいと思うねん
戦ってもいい事はない
本当に稀にしかいないけど、人の身体的特徴を貶してマウントとってくるやつというのがいる
正直そう言った人とは関わらないのが一番
お前は一重だとか鼻が低い、蒙古襞が張ってるだの、、そんな事をいちいち指摘してくるのは失礼甚だしい
マウント取りもここまでくると流石に看過でき無いと思うよ
何でこんな小さな事を気にするんだろうか?て思うくらい神経質な人っていうのは一定数いる
普通の人からしたらそういった神経質な人はうっとうしい事この上ないだろう
とはいえ、神経質な人の感覚が資する場面はたくさんある
例えば、リスク管理にはすごく有益
どんな性格も使い方次第よな
何か一つに過剰に執着するとこれがなくては生きていてはならない!なんて感じの態度をとってしまう
これではとんでもなく視野が狭いし、生きづらくなるだろう
例えば美に執着し美しくない者は生きていてはいけない!等と言い出したら生きててしんどくなるのは間違いない
こだわりも度をすぎると毒
自分は人の生きている普遍的な意味など不要って立場だけどもやっぱり思うよね
生きている以上は幸せな方がいいし、幸せな人が増えてくれたらきっとそのおかげで多くの人がまたさらに幸せになるよなってさ
意外と自分だけの幸せを追求したってそこには上限があるのよな
人のためは自分の為でもある
依存は悪である、なんてことはないのよね
どんなに自立した人でも必ず何かしら依存しているもの
例えば家族がいるから頑張れるだって家族に対する依存と言ってもいいと思う
依存し合いながら生きてるのが人間さ
でもそれがある特定のものや人に向きすぎた時に悲劇が起こるのよ
適度に分散させよう
ありのままの自分を自分が認めてあげるのはとても大事な事よ
これがないと人生は辛いことの連続だ
自分が自分を責めたところで何も生まれはしない
自分はいつも自分の味方でいなくてはね
ただし相手にありのままの自分を認めてもらおうは断じてダメだ
これが表面化すると人間関係は破綻するかも