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【篠塚伊賀守】堀端の橋を撤去して、籠城している足利勢に対し、篠塚は傍らの大卒塔婆を引き抜き橋替わりにして切り込んだという。
娘の伊賀局は、高師直軍から逃げる途中、橋が壊れていたので、松や桜を折って渡し、無事賀名生へ落ち延びた。同じような逸話を持つ親子である。
【堂射】星野勘左衛門は、三十三間堂の廊下で、夜通し弓を引き続けて、堂の軒下約121mを、何本の矢を射通せるか競う「大矢数」で、勘左衛門は八千本の記録を立て、天下一(惣一ともいう)の称号を得た。江戸時代初期に流行したこの競技は、超人的な記録の更新が相次いだ。
【一国長吉】黒田長政が筑前を拝領し、一国の太守となった時、初陣から愛用してきたという槍に「一国」の名を付けた。長政にとっては感慨の深い一品のようだが、他にも沢山、筑前黒田家には宝や名物があるのを忘れてはならない。
【鼻紙袋】鼻紙入れとも。当世具足の胴の左の脇に付く袋。鍔当を兼ねて小物入れとして使う(小田原城天守閣甲冑展「小田原城武者揃え」図録より)。酒井忠次と家次父子の所用と伝わる具足には、両方とも鼻紙袋が付いている。
【婦女隊】能書家で歌道に明るい中野武子は、薙刀の名手でもあった。会津戦争では同志と共に婦女隊を結成し、旧幕衝鋒隊に加わる。城下に迫る官軍に遭遇し勇猛に戦うも、銃砲の前に益なく戦死した。薙刀の柄には「もののふの猛き心にくらぶれば数にもあらぬ我が身ながらも」の辞世をつけていたという。
【鑓半蔵】武田との戦いで退却を迫られた渡辺半蔵は、負傷した近藤伝次郎に請われ、手柄首を捨て、彼を担いで逃げた。これを聞いた家康は、味方を助けるのは何より優れていると褒め、「槍半蔵」の異名を許されたという話がある。半蔵は後に「俺でなければ斬り棄てられただろう」と語ったともある。