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フロイトが自信満々で発表した深読みは、あっけない形で否定されることになる。
精神分析の根拠としたレオナルド・ダ・ヴィンチの手記「幼年期のハゲワシの夢」自体が間違いだったのだ。
実はフロイトは初歩的なミスを犯していた。
引用した手記はドイツ語翻訳版で、原文を確認していなかったのだ。
そしてフロイトは、この過去のトラウマが『聖アンナと聖母子』の絵の中に落とし込まれていることに気付いた。
聖母マリアの服が「ハゲタカ」になっていて、尾が幼子イエスの口に当てられているのだ。
これらの発見をフロイトは『レオナルド・ダ・ヴィンチ 幼年期の想い出』として大々的に発表した。
なぜ米津玄師の『馬と鹿』は「馬鹿」ではなく「馬と鹿」なのか?
僕が思うに、この「と」はとても重要だ。
おそらく「馬」は「ウマい」の駄洒落だろう。
つまり「ウマいとシカ」という意味。
米津君は僕が梶井基次郎の『Kの昇天』を絡めたことを「上手いとしか言いようがない」と言っているのだ。
米津玄師の『M八七』が主題歌の『シン・ウルトラマン』の本名は「リピア」という。
「Lippia」とは花の名前であり、この絵のことでもある。
『崖の上のポニョ』の物語には重大な秘密が隠されている。
読み解く鍵は「父母未生以前」だ。
これは禅の公案で、自分の父と母がまだ生まれる以前の世界において自分は何を感じるかを尋ねたもの。
ポニョと宗介が大好きな「ハム」は公案の「公」でもある。
宮崎駿という人は本当に恐ろしい。
チチアン(ティツィアーノ)は酒神バッカス(ディオニュソス)を題材にした絵をもう1枚描いている。
『アンドロス島の人々』はディオニュソスの信者たちを描いた作品。
愛する夫の帰宅を待ち焦がれるアリアドネが、湧き出る葡萄酒の中で身悶える印象的な絵だ。
晶子はこの絵を自分に重ねたのか?
久しぶりにケンタウルの露を降らせたらスッキリした。
ちなみに宮沢賢治『銀河鉄道の夜』に出て来る「ケンタウル祭」を多くの人は勘違いしている。
あれは星の祭ではなく「春」の祭だ。
初出は賢治が学生時代に書いた短歌。
わがうるはしき ドイツたうひは とり行きて
ケンタウル祭の 聖木とせん
『風の谷のナウシカ』における最終戦争「炎の七日間」はハルマゲドンと天地創造を投影したもの。
そもそもハルマゲドンは「最後の審判(死と再生)」のためのリセットボタンだった。
やっぱり宮崎駿監督はフラ・アンジェリコの絵からイメージを膨らましたのかな。
ジェームズ・キャメロンのように。
そして宮崎駿ワールドでは「mori(モリ)」と「umi(ウミ)」はイコールである。
「森」と「海」は同じものであり「死」と「生」は表裏一体。
だから「腐海の森」は死と生の再生産装置になっていて、究極真理「飛行石」は樹海の中にあった。
そして「森」と「海」は「女」
女性のコア部分である。