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「フフフ…GTX 1050 Tiよ! こんなゴミでも今なら奴らは買うわ!」
ラストが駆け足にならなかったとして、果たしてこの二人は結ばれたろうか。今思えば、この恋は最初から成就しないことが運命づけられていたのだし、それを楳図かずおは描きたかったのだと思う。
(線の愉悦)多くの人が、描く者の多くが誤解をしていると思うが、線はそれ自体表現であり愉悦なのだ。星飛雄馬の一種奇怪なハッチングは小松崎茂や樺島勝一といったペン画の伝統、そのものでなく憧憬の上にある。媒体上の制限と言いながら、我々は線によるタッチを重ねることが好きなのだと思う。
(見てみたいもの) 「ゴジラ対生ゴジラ」 今までのはなんだったんだ。
(こんなしょうもないことに貴重な脳細胞を使っていいのだろうか) 「明治アーモンドバルキリー」
自分で伸ばしたことはないから今気づいたのだが、実は髪というのは大して透けて見えないのではないか。きっと透けるだろうな、透けて見えて欲しいなという憧れが絵としての髪の毛を成立させているのではないか。我々は髪の呪術性を見ているのだ。存在しない頬のタッチと同じように。
「じじい、そこにもう一画足したら日じゃなくて田だぞ」
MSX版スパルタンXなのである。版権の関係で名前がそのまま使えないのでこうなった。しかしなぜこうなる。ここにマーケティングとかネーミング会議とかあり得ないのである。そんなことやろうがやるまいが買うやつは買うし買わないやつは買わない。デタラメが許された時代である。ムチャクチャだ。
(そして、PCエンジンを買ってしまった若い恋人たちは、地獄のようにおそろしい、不運で不幸でどうしようもない呪われた暮らしをする羽目になるのでした)
①ポケモンマスターに憧れていた少年時代 ②現実