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A3のケント紙というのを100枚買ってしまったのだ。安彦良和が買ったというからオレは安彦を信じた。だがケント紙は絵の具を吸わんのだ。よく調べたら安彦の奴は厚塗りのガッシュだから吸わんでもいいらしいのだ。裏切ったな安彦。お前を信じていたのに。どうしたらいいんだ。あと97枚くらいあるが。
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「お、お父さん」 「絵の枠かと思っただろう、と見せかけてそれは実際に大きなさくらんぼなんだよ」 「大塚愛かあんた」 「いや大塚愛は別にこんなことせんぞ」 「もう一回」
エヴァンゲリオンの主人公「碇シンジ」のモデルになったのは「樋口真嗣」という太ったヒゲのおっさんである。見るとガッカリすると思うのでぜひ見てくれ。
ここに世間というものの本質を見る。「究極のシンプルにディティールを持ち込んで喜ぶのか」という主張は、ツノを生やしたセブンであるタロウや「ウルトラ兄弟」に熱狂した自分たち世代にはそもそも言う権利がない。世間は咀嚼し、そこではじめて味を知ることができる。いつも誰も同じことなのだ。
「ウルトラの国」は要するに昭和の極楽図であろう。思いつく限りの崇高で神秘的なイメージを具現化しようとして、結果その時代の人間の可憐さを露呈させている。そして地獄図に比べ極楽図は退屈で陳腐になりがちなのだ。人間は地獄は見ても極楽を見ることはないから。
「あの時助けていただいた、半分ゆで卵カッターで切られそうになったゆで卵です!」
華宵の描く美少年の憂いの目は、なろう系の主人公からぽっかりと抜け落ちている。憂いは現実を見据え、挑む者の手前勝手な証明であるから。なんでそんなことやんなきゃいけないんだ。目が覚めたら無自覚にステータスMAXでなければならない。その優位をただ幼児のようにポカーンと味わいたいのだろう。
70年余を経た日本の少年の理想像なのである。共に小兵である。しかし強い。一方は修練の果に浮かぶのであろう止むに止まれぬ憂い顔であり、一方は天賦の才に恵まれつつ、無自覚にしてそれを驕らない。これを裏返すと、痕跡化石のようにしてその時代の少年の切ない状況や願いが見えてくるのだ。
(覚書)ものすごい苦労して水彩で仕上げるよりも、昭和風のセル&ポスターカラー背景の方が見栄えがするのではないか? 今後の検討課題としたい。