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1584年 徳川家康 小牧長久手後位 軍旗に源氏の由緒ある無地の白旗を使い出す
1588年 足利義昭が将軍辞任
1596年 内大臣
無地白旗の乳の色が高貴の紫に変わる
1603年 源氏長者
徳川家康が『次の時代が見えた!』って源氏のトップを狙い出したのはやっぱりこの頃なんだろうか
#突然どうした
1643年の今日、天海の忌日。
徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。江戸の都市計画にも関与したとも言う。天海の生年ははっきりしていないが、100歳以上の長命であったと言われ、小槻孝亮の日記によると107歳で没したという。
#明日使えそうな戦国時代小ネタ
三葉葵といえば徳川家康だが、三葉葵には物凄いバリエーションがある
家康・秀忠時代は葵の葉脈が緻密で葉と枠に隙間があるのが特徴
時代が下るにつれ将軍家仕様・御三家仕様と様々な進化を下たが、臣下は使えず徳川一門の独占紋になっていた
#だから印籠を見て驚く
問・言うて天下人だから贅沢してたんですよね?
答・徳川家康『万畳敷の屋敷があっても、座って半畳寝て一畳
八珍の美食を並べ立てようが飯の宛になるのは二・三菜だぞ
旨いもんでもそればっかりでは旨くなくなる
生命は食、人は呑む喰う物が大事なのだ
燕雀も鴻鵠も健康でなくては志を成せぬ』
#明日使えそうな戦国時代小ネタ
徳川家康は医食同源を理解していた
鯛のてんぷらの逸話で損をしがちだが、漢方医学ほか食事が健康に係わる事を意識していたという
織田家から真冬に届いた桃に手をつけなかった、美食は月に二度三度で良い、麦飯を好んだなど家康と食に関する逸話は数多く残っている
問・なぜ今川家が悪い事になったのですか?
答・徳川家康『三河物語は家臣の大久保忠孝が編んだものだが、儂は常に正しいという観点で書かれている
江戸時代は主君は尊属であり、家臣は卑属なのでいかな理由があれど逆らってはならん
今川家は徳川に背かれる理由がなければならんかったのだろうな』
問・なんで今川家は悪いことになってるんですか
答・徳川家康『三河物語は家臣の大久保忠孝が編んだもので、常に儂は正しいという観点で書かれている
江戸時代、主筋は尊属であり卑属の家臣はいかな理由があれど逆らってはならん
今川家は徳川に滅ぼされる理由がなければならんかったのだろうな』
【仕事情報】
「逆転の天下人 徳川家康」
作:伊豆平成先生(@IzunoHiranari)
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問・なんでそんなに頑張ったんですか
答・徳川家康『子孫一族の繁栄は武士の務めだからだ
側室に経産婦ばかり迎えた時節があったのも全てはこの一願の為よ』
豊臣秀吉「一人くれ」
徳川家康『おじいちゃん、一人あげたのに捨てたでしょ?』
#結城秀康
#明日使えそうな戦国時代小ネタ
徳川家康の長子と末子は半世紀近い開きがある
長男信康は十八歳、末娘の市姫は六十六歳で儲けたのでその差は48年
信康の娘・とくは1577年、とくと小笠原秀政の子・忠脩は1595年生まれ
市姫は年上の大甥がいた事になる
なお48年は戦国時代で推定二位記録になる
問・なんでそんなに頑張ったんですか
答・徳川家康『子孫一族の繁栄は武士の務めだからだ
側室に経産婦ばかり迎えた時節があったのも全てはこの一願の為よ』
豊臣秀吉「一人くれ」
徳川家康『おじいちゃん、一人あげたのに捨てたでしょ?』
#結城秀康
1630年11月9日(寛永7年10月5日)・命日
◆藤堂 高虎(とうどう・たかとら)≪満74歳没≫◆
[1556年2月16日〜]
浅井長政,羽柴秀長,豊臣秀吉につかえる。秀吉没後は徳川家康にちかづき,関ケ原の戦いでは東軍に属し戦功をあげた。伊予今治藩主から慶長13年伊勢津藩主藤堂家初代となる。32万3950石。