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問・「何で屋敷でじっとしてないんですか」
答・山科言継『引き籠もりに公卿は出来んからじゃ
人脈こそが乱世を生き抜く術であり公卿の存在価値だからの
なお、公家の日記にたびたび出る“村長”とは村井長門守、織田の京都所司代・村井貞勝のことだ
困ったらまず彼に便宜を図るのが公家の常套だぞ』
#明日使えそうな戦国時代小ネタ
戦国時代の公家達は屋敷に引き籠もらず、毎日の様に何処かしらへ出かけている
「言継卿記」などを見る限り、毎日ひっきりなしに公卿仲間や織田家の関係者、果ては織田信長にまで会いに行っている
本の貸し借りをしたり贈り物の交換、酒を飲むなど厚誼を重ねている
#明日使えそうな戦国時代小ネタ
主家と豊臣家の衝突回避を試みた谷忠澄と北条氏規、豊臣家に早期降伏して中央への転封を望んだ島津家久(叔父)たちには共通の履歴がある
全員上洛経験がある
地方と中央の違い、天下人の威勢と殷賑振りを伝聞ではなく実際に見ており、谷忠澄はその事に言及している
徳川家康『今晩は、徳川家y(ry
これは下世話な意味でなく、夜勤や業務に追われる奉行所同心達が朝湯で混雑する男湯ではなく、閑散として広々な女湯で汗を流すという…一種の役得的なものだ
八丁堀界隈の銭湯では女湯にも刀掛けがあるほどで、女性達もこの時間帯に銭湯に行かなかったそうだ』
徳川家康『今晩は、徳川い(ry
俗に“✕✕藩○○万石”というのは江戸幕府が諸藩成立時に定めた表面上の石高で、官職や江戸城内の待遇がこれで決まる
実際に収穫できる石高を内高といい、新田開発はこれに含まれる
なので江戸も半ばには表高より内高が高くなる
どの藩も収入増に必死だったのだ』
徳川家康『今晩は、徳川家y(ry
江戸幕府は儂の死後、五代綱吉の頃まではまだ景気も良く放漫経営でも通っていた
しかし商業が発展し米の価格に対する物価が向上すると武士の家計簿は年々苦しくなっていった
幕府も下々の武家が苦しいのは知っていたから、こんなお目溢しもしていたのだろうな』
@Olt_Calius 徳川家康『井伊は固いことを言えば直孝が嗣子でないからどうだろうな
江戸時代の武家は栄養学の未熟さから他愛もない事で病気になり、夭折することも少なくない
誰とは言わんが謀オットセイが養子をばら撒いたので先祖を辿ると儂が居る、なんて藩もあるからな
大身の藩はよほど用心したのだろう』
徳川家康『今晩は、徳川家康で(ry
この“実年齢から逆鯖を読んだ歳”は公年と呼ばれる
幕府も江戸中期を過ぎると無嗣断絶による浪人増加が不平不満や犯罪の温床になるのを憂いていて、この様な仕儀を黙認していた
なお、武士は出生届を出す義務が無かったので年齢を誤魔化すのは簡単だった』