//=time() ?>
勧修寺晴豊『ん、今日は麿の命日じゃのう
武家伝奏…諸大名からの献金、室町幕府や織豊から奏請される諸事案を取り次ぐ職を勤め、時には合戦中の陣中を見舞い、時には勅命講和の使者として修羅場も潜り、一次史料たる日記『晴豊公記』を著した
近衛殿には敵わぬが、なかなかの波瀾万丈だったのだぞ』
1569年
正親町天皇『副将軍あげる(はぁと』
織田信長「家格に合わないしいらない」
1575年
『右大将あげる』
「ちょっと待てそれ頼朝公の」
1576年
『内大臣あげる』
「いやいや義昭越えとるやん」
1577年
『このいやしんぼめ、なら右大臣だ』
「誰が欲しがりさんや!」
1578年
「全部辞める」
『』
#明日使えそうな戦国時代小ネタ
黒田官兵衛の官兵衛は“クアンピョウエ”と読む
フロイスらキリスト教宣教師にはそう聞こえたらしい
彼らは人や地名の読みを聞こえた通りに記載しているため、一次史料でも判らないことが多い読み仮名や発音を後世に遺している
#フロイス日本史
#みんなの推し公家教えて見た人強制
山科言継
集金に駆けずり回って家業でお医者さんして愛洲薬処方して足利義輝に家領横領されて『返して(´・ω・`)』って何度もお願いして現代にも残る一次史料の日記書き続けて集金に駆けずり回って信長に心配されて死後三百年以上経って破格の贈従一位になれたひと
天正三年(1575年)
正親町天皇『はいノッブ、右大将あげる(はあと』
織田信長「いやあの、これ…」
『義昭の帰洛交渉失敗したんやろ』
「でも、あの人将軍辞めてない…」
『義稙とかクビにしてるしへーきへーき』
「そんな、困ります」
#戦国沼に触ったひとなら信長の困り顔が見える見える
問・なんで将軍様より地方長官の方を偉くしたんですか
答・正親町天皇『だって義輝、あんまり京都に居ないし居てもリスペクトも金も出さないし、ほっとくと土地横領までするからな
その点、大内や毛利は献金頼んだら出してくれる
覚えが良くなるのも致し方あるまいよ』
天正三年(1575年)12月2日
吉田兼見『村長(村井貞勝)が有馬へ湯治にいくとか聞いたから見舞いに行った。
道でばったり長兵(長岡兵部大輔・細川幽斎)に会って懇談。
長兵は勝竜寺城に帰る。』
…村長さんとチョーヘイさんでは、ちょっと聞いただけだと全然偉く聞こえない不思議
#兼見卿記
細川忠興『今日は三斎宗立こと儂の命日だぞ
何かちょっと嫁さん偏愛して何人か斬っただけでサイコ扱いされてるが…父に劣らぬ風流人であり鎧兜のデザイナーであり人材管理の達者たる側面も忘れないでくれよ』
ガラシャ「…何か、ちょっと?」(血塗れ衣装でクルス握って満面の笑顔)
『ごめんて』
@yamashir0107 陶晴賢「厳島の戦いがオフサイドなのは誰の目にも明らかだからな」
毛利元就『寝言はゴールネット揺らしてから言え』
#ホームタウンディシジョン